男一人でラグジュアリー-コンラッド大阪-
2021年4月下旬
コロナ禍で男一人でできる旅とはなにか-コンラッド大阪-
部屋に入った瞬間からもうすべてが違う。設えの妙、という次元ではない、地上から離れた地上を見渡せる場所。すべてに手を抜いていないのがよくわかる。いつか泊まりたいと思いつつ手が出なかったコンラッド大阪。ついに来てしまった。すさまじくいい。これはびっくりした。
男女格差について、特に女性側擁護にばかり過敏に、いや、敏感になっている傾向がある世間ではあるが、実は男にもそれなりにしんどいこともある。女権論者も男権論者(なんて言葉があるのかは分からないが)もそれぞれ、狭い自分の半径3mくらいの守備範囲の事だけに注目して、かしましく他者を責める自己主張しているように見え、その手の(大概はくだらない)論争はあまり好まない。
男一人でこのようなホテルに泊まる、というと必ず言われる。いい歳をした男が一人でこんなとこに泊まって何をするのか。女でも呼ぶのか。ひとりで何が面白いのだ、と。何も知らない人間のたわごと、と思い、放っておく。経験したことのなかったころの自分と同じだ、と思い、放っておくようにしている。
なんせ、いい。いいのだ、いわゆるラグジュアリーなホテルは。
普段、軽薄な横文字を並び立てるのは大嫌いなのだが、こういう一流のシティホテルは、ラグジュアリー、という言葉がしっくりくるような気がする。
コロナ禍という非常時に家にいないとは何事だ、と言う人たちがいる。ただ、多動の旅バカにはなかなかそれが出来ない。なんせネットを開くと目の前には、出血大サービス、セール、セール、セール、と書かれたような価格帯になっている宿ばかりが表示されるのだから。
ここにはいつか来たいと思っていた。しかし心のどこかで、高すぎて無理かなぁ、と思っていた。それが今回、エグゼクティブラウンジ使用(と思っていたが実は違っていた)込みで、今後一切ない唯一のチャンスと思ってしまうほどの価格が提示されていた。見逃せるわけがなかった。
ただし。
おそらく旅バカ以外には「その値段のお金をそんなことに投入するか」とドン引きされるくらいの値段。
人はみな違う価値を持っている。私は車に大金をかける人の気持ちが分からない。ゴルフにお金を使う人も、アイドルにお金をつぎ込む人もあまり理解できない。
それと同じように、おそらくここの値段を聞いた多くの人が、アホと違うか、とあきれるだろう。そういう、他人から見て本当にばかげていることこそが、本当に心の底からやめられない熱気を帯びた趣味なんだと思う。
そして、それだけのバカげた熱量のある趣味を持っている自分は、かなり幸福な人間なのだろうと自画自賛してみたりする。
だがしかし。
私は、ごくごく普通の勤め人。ラジオドラマの安部礼司風に言えば、極めて平凡なごくごく普通のサラリーマンである私には、明らかに過ぎたるもの。それはわかってはいるが。
お金は楽しむためにある、と割り切れている……ふりをする。
心地よい空間の条件とは何なんだろう。北海道の温泉宿、沖縄の民宿、高い宿、安い宿。それぞれの価格で、心地の良いところがある。そして、高いお金を払ったからと言って至福の時間を過ごせるわけではない。
安宿に来てもう一つならばまあ仕方ないで終わらせることもできる。しかし、えいやっ、で思い切って高いお金を払って来た宿で失敗すると、とてつもなく落ち込む。だからこそ逆に、「当たり」だと、払った以上に価値を存分に感じることができる。
遠方に、東から南にかけて連なる低い山々の緑が映える。その端は大阪湾の南端まで続き、和歌山との県境を作りつつ大阪湾の南端に落ち込むはずだが、そこまでは見えない。
その緑の縁から延々と、大阪の街が広がる。
遠くから、小さく見える家々がびっしりと。
そして手前には、こうしているとなかなか美しく見える街中を流れる大きな川の両岸に、世界でも指折りの大都市と言えるであろう大阪の街並みを構成する大小のビルが、平地に生える鋼鉄の森のようにいくつも林立している。コロナ禍で数が減っているとはいえ、車が多く行き交い喧噪の音があふれている、はずである。
しかし、わずかにガラス一枚挟んだ部屋の中は驚くほどの静寂さである。一人でいてると、かすかな空調の音と、本当に遠くの出来事のように、大都市のうごめく音が耳に入る。
その大きく取られたガラスの塊は、窓、と呼ぶには失礼なくらい、自分の背丈よりも遥かに高く、大きい。別に高級感をアピールしているわけでもないのに、ただただ贅沢な気分になる。
ベッドは完璧にセッティングされて、ぴっちりと美しく整えられている。すぐにでも体を放り出して大の字に飛び込みたくなるくらいに広い。
ふと目がいく。2体の人形。
おそらく、冬の中之島に浮かぶウエスト・ラバー・ダックをモチーフにしているのだろうか、透明のアヒルと、詳しくはないからわからないが、テディ・ベアーのような小さな青いくまのぬいぐるみ。
大の大人の男が、こんな歳の男がこういう小さなものに心がウキウキしてしまう。なぜなんだろう。普段接することが皆無であるお人形さん2体を見て、たまたま訪ねたエストニアのベイエリアで泊まったホテルを思い出した。
全く訪問する予定のなかったエストニアに泊まったのは、用事で訪れたフィンランドの物価の高さに閉口したから。本当はもっと長くいるはずだったが数日後には出国し、なんの前知識もなくフェリーに乗って着いたのがスカンディナビア半島の対岸の国、旧ソ連圏でバルト三国の一番北にあるエストニアだった。そこはとてつもなく居心地の良い国であった。
そのホテルに泊まった際、ベッドの上にちょこんと置かれていたのが小さな小さな羊の人形だった。その頃ももういい歳になっていたのに、思わずそれに触れてみた。さわりごこちがよい。羊毛、なのか?そんな訳はないな。
ただどうにも、この人形が好きになってしまい欲しくなってしまった。これはもらえるもんなのだろうか。
ふとタグが出ているのに気づく。20ユーロ。なかなか絶妙な値段設定だ。これを持ち帰ったところで部屋の片隅で置かれるだけになるのに、と思っていながら、気がつけば彼は私のカバンの中に領収書とともに収まり、遠く日本までついてきていた。
羊は今も、ピアノの上で埃にまみれながらも元気に暮らしている。この2体には値札はないが、果たして家までついてくるのだろうか。
部屋は広い。部屋の中を歩き回る、という感覚はあまり普段ない。
自分の身長を遥かに超える大きな窓によって外気と音は完全に遮断されている。心地よく、かつ、静寂。都心特有の、ごぉぉ、という低く静かな地鳴りのような都市の唸りがわずかに聞こえる。
まるで映画に出てくる大富豪の一室のようだ。
てなこと考えながら、なんとチープなことしか考えられないのだろうと少し恥ずかしくなる。でも、昔見たハリウッド映画に出てきたお金持ちが泊まっていた部屋を、どうしても重ね合わせてしまう。
広がる大阪のビル群が、眼下に見える。お金持ちは高いところが好き。何かで読んだ気がする。ほんとかうそかは知らないが。ただ、こんな風に高い場所から街を眺めていると、なんとはなしに偉くなった気になるのは不思議である。
大阪ドームがぽっこりと、不時着したUFOのように見える。円盤のへりに大きなチューブをつけたようなそのドームの向こうには薄っすらと大阪湾が見える。意外と大阪の大都市のすぐそばに、海がある。地をはっていると忘れがちだが。
ソファに座るとちょうどいい具合に受け止めてくれる。柔らかすぎず、心地よい。クッションにもたれかかると、左手の棚の上にコーヒーメーカーが置いてある。
立ち上がって、エスプレッソを淹れる。
マシンが音を立ててアイドリングをした後、カップに濃い液体を落としてゆく。香りが部屋を満たす。南部鉄瓶が、オブジェなのか実用なのかはわからないが、錫の茶碗とともに置かれている。興味をそそられて、手に取ってみようかと思っていると、エスプレッソが出来上がった。
もう一度ソファへと腰掛ける。エスプレッソは甘くして飲むのが好きなのだが、なんだかこの景色を眺めていると、強く苦味のあるそれをそのまま飲みたくなった。
口に含み、やはり苦い、と当たり前のことを思いながら、ぼぉっと窓の外を眺める。
なんとありがたい境遇なのだろう。なんと幸せなことか。心の底から思う。
窓のむこうに見えるその建物全てで、たくさんの人が働いている。生活を営んでいる。そんな沢山の人達を視界に入れながら、自分は広々としたソファで、好きなエスプレッソを楽しんでいる。
心地の良い空間は時間の流れが変わる。いつもの大阪を見ている。ただそれだけなのに、時間がいつもの数倍早く流れる。
また一口、苦みを口に含み、そして部屋を見渡す。この天井なら武術の練習で使う木刀、室内で振れるなぁ、なんて、訳のわからないことを考える。
この南部鉄瓶を使う人はいるのだろうか。ちょっとこれを使ってお茶を淹れてみようかな、とも思ったがめんどくさくてやめた。何より、このソファから離れられない。見慣れたはずの大阪の街を、初めての視点で改めて眺めているこの時間が、やめられなかった。
ベッドの直ぐ側の大きな引き戸を開けるとバスルームがある。おそらく夜にこの扉を開ければ夜景を見ながら入れるのだろう。洗面台は当たり前のように2つある。何もかも広々としている。そしてここは、一人で来るところではないのかなぁ、などと思ってしまう。
ただ、とも思う。ここを一人で使うのが当たり前の人も世の中にはいるのだろう。この広さより狭いの部屋に泊まることなんて、想像もしない人たち。格差を責めることもできる。けれどできれば自分は、その領域に行ってみたい、とも思う。
本来ならばエグゼクティブラウンジが使えるプラン。だが残念ながら、今回は新コロナ蔓延のため、ロビー階にあるアトモス・ダイニングがその代わりを果たしていた。
ロビーでチェックインする際、とても丁寧にその旨を説明していただきお詫びをされた。その対応がなんだかすごく心地よくて、やっぱりいいなぁ、いい宿は、と改めて思ったりした。
そして、「いやいや、多分そのおかげで私なんかでも手が出る、お手頃の価格で泊まらせていただいているんです、ありがとうございます」なんて、心の中でつぶやいたりしていた。
我ながら小市民だなぁ、少し卑屈だなぁ、などと思う。嫌なお客になってないかなぁ、などと考えなくてもよいことを気にしていたりする。
そして何より、ああいう心地の良い接客をしてもらうと、必ずもう一度ここに泊まれるように頑張ろう、と思える。
バリをイメージしたラインナップ、と書いてあっただろうか。
とにかくブッフェスタイルで取りすぎてしまうところ、そして美しく盛り付けられないところは、いつまでたっても変わらないとつくづく思う。結構人がいるのにびっくりし、自分と同じように考える人が意外と多いのかもと考える。
サテを串から直接かぶりつきつつ、コーヒーを一口いただく。この不思議な組み合わせに、日本という国はなんと豊かな国なのだろうと改めてありがたくなる。
世界の様相が一変しかねないこの混乱期でも、異国の風味を堪能できる。黒ゴマのペーストは優しい甘さだった。ゴマが好きである。健康にいいから、だろうか。
甘くなった舌は再び、生ハムを口に運ぶと程よい塩辛さで満たされる。
地上40階からの風景を見ながらよりどりみどりのスイーツを楽しむ。気を付けなければならないのは、食べすぎることだけ。しかし今日は、ま、いいか。そう思う。
一人の時間は、少しの寂しさを抱えながらもやはり自由である。そんなことを思う。コーヒーを口に運びながら大阪の街を眺める。ハルカスは逆方向の南なので見えない。
かわりに大阪のキタの街並みが美しく並ぶ。
機能美。一つ一つのビルに何の統一性もないからヨーロッパの古都の街並みのような美しさはない。が、何とも言えない、規則性なく立ち並ぶそのビル群はそれなりのアジア的なハーモニーを生み出しているように思える。
取りすぎたかな、と思いつつ、ムースを口に運ぶ。その軽い甘さに、まだまだいけるかな、と思い直す。せっかくいい部屋を取ったのだから、ざわついた喧噪から離れ、部屋でのゆっくりとした時間を過ごせばいいのに。それができないあたりがまだまだいい宿慣れしていないなぁ。
これだけの種類の豊富なスウィーツが大量に並べられている。
豊かさの象徴。これを当たり前と思ってしまうとダメになる気がする。ありがたいなぁ、と無理にでも思ったりする。本当は当たり前ではない、ということを忘れたらあかんなぁ、と。
ロビーへ出るともう日が傾きかけていた。入ってすぐのところにあるモニュメントは、チェックインの際にゆっくりと見ていなかったが、それが風神雷神像であることに気づく。
アートの世界に生きる人の発想に感動する。こんな風に、球体を集めて日本古来の神像を作り上げてしまうのだから。バブルで構成された作品が並ぶ。とても面白い。
メインの出入り口を出るとすぐに、この高層階にもかかわらず大きな回り階段がある。そしてそこでは結婚式の写真撮影が行われていた。
二人には、ほんの少しの緊張と、そしてありったけのしあわせさが満ちあふれているようにみえた。それはまるで、自分にも愛と幸福をおすそ分けしてくれているようだった。
本当にしあわせになってくれればいいなぁ、と思える自分の心は今、同じくらいしあわせなのだろう、と感じられた。
二人に連なる、巨大すぎるガラスの窓は、アールを描いて続く。
太い桟に区切られる大阪の街は様々な色をなす。
ふだん地面を歩いているときにはあまり意識できないが、こうして見ると大阪はやはり、川の街だとわかる。江戸の昔にもこんなに橋が連なっていたのだろうか。それとも木造りの橋が一つ二つ、あっただけなのだろうか。
大阪の街は緑が少ない。
ここからだと、それを視覚的に実感できる。
東京の高層ホテルに泊まると、そこここに何かしらの緑の領域が点在、あるいは広く存在する。しかし大阪で、こうして高い場所から街を見ると本当に青々とした場所のはほんの少ししかない。
眼下に見えるのは細長い靭公園だろうか。それ以外は緑がほぼない。
どこまでも続く樹々のない街並み。田舎育ちの私は少しばかり、脳内で息苦しさを感じる。
それでも天に目をやると、青い空がちゃんと広がっている。なんとなしに安心した気分になる。雲が流れてゆくのを、しばし、ぼぉーっと眺める。天空の園。そんな言葉が浮かんでくる。
多分、歴史上の権力者でさえ眺めたことのないすさまじい風景を、庶民である自分が今眺めている。すごい時代に生きている。
部屋に戻り、本を開く。しかしほんの数ページめくるだけで、すぐに置いてしまう。そしてまた、外に目をやる。
生駒山麗が続き、高い建物の影が幾層にも連なっている。
時間がたつのは早い。もう日暮れ。なぜ心地の良い時間はこんなにすぐに過ぎて行ってしまうのだろう。
南方向を見ると、今のところ日本一の高さ保つ商業ビルであるハルカスだけが、やたらにょっきりと目立って建っている。他と比べてよほど高いのだろう。
このビル群の一つ一つにたくさんの人がいてると思うと、時々少し怖くなることがある。怖い、というのとは少し違う、かな。ただ何というか、人間という生き物の底知れない増殖力を感じる、というか。
それぞれの人が、この巨大な建造物それぞれの中で人生の喜びや悲しみを他人には知られることなく、それでも絶えることなく続けている。そして自分も今、こうして巨大な街を構成する一部になっている。
はるか六甲の峰に日が沈む。大阪の夕焼けもなかなか美しいものだと改めて見とれていた。こんなに心地の良いロビーはなかなかない気がする。大阪湾は意外なほど、きれいな景色を作っている。
そろそろ食事の時間。まだお昼の名残がおなかにあるものの、やはり食べたい欲求が出てくる。人の欲求はいくらでも出てくるのではないか。そんなことを考えながらダイニングに入る。
飲めない私は、ほんの一杯で顔が真っ赤になる。しかしやはり、チーズやなんかがあると飲みたくなってしまう。新鮮な魚介であれば日本酒しか飲まない。が、ここではめったに飲まないワインをほんの少し、注いでみた。
粽にスープにチーズ。いったい何料理なんだろう。ま、関係なかろう。
チーズをかじって、少し咀嚼してワインを口に含む。やはり合うんよね、これが。
おそらくワイン好きの人は、こんなもので満足してるのか、と思うのだろう。しかし、日本酒とビール以外を選択することが極めてまれな私は、そのマッチングだけでただただおいしいと感じられる。
時間がゆっくりと過ぎてゆく。
正直、夜ご飯、というには少しばかりさみしいラインナップかもしれない。ただ、ランチを兼ね合わせて考えると自分にとってはちょうど良い。大阪の街はすっかり夜の帳が下りてきて、鮮やかなライトが、それこそ無数に点灯している。
心地の良くなりロビーへと出る。
酔っぱらった頭で、数限りなく点在する明かりをぼんやりと見つめている。
時々考える。この明かりひとつひとつ、どれ一つとっても自然のものは一つもない。すべて、人が作り出した人工の明かり。当たり前のことなのかもしれないが、すさまじいと思う。地球で一番、変な生き物で、一番地球を害する生き物。でもたぶん、地球で一番、すさまじく美しく素晴らしいものも作り出す生き物が人間なのかもしれない。
このロビーの居心地の良さ。
空間と照明と造形物が織りなす、どこにいるのか一瞬戸惑うような、三次元的な光の重層的な光景。これを見て美しいと思うのは、人間だけなのだろうか。それとも他の動物で、これに感動してくれ、共感してくれる種がいるのだろうか。
ガラスの向こうにある腕時計に引き寄せられる。スマホさえあれば時計はいらない、という世代がこれから増えていくだろう。ただやはり、私はこの小さな機構に魅かれる世代なのだと思う。なんと美しいフォルムなんだろう。ただひたすらにかっこいい。
買ってしもたろか、と値段を見る。予想の桁を一桁超えて、さらに数倍した額であった。
値段も見ずにこれを買える人がいるのだろう、世の中には、多分。
自分もそうなりたい、と痛切に思った。アルコールは自分の本性を浮き上がらせてくるのだろうか。いつもそれほど思わないのに、いつかこれを絶対手に入れる、となんだかわからない意地のようなもので頭がいっぱいになった。もう頭が眠りかけているのかもしれない。
部屋には、普段使うことのないような大きな机が備え付けられている。その後ろには大きな画面。そしてスポットライト。
ぼんやりとした頭で、写真を撮っておこうと思った。いつもこのような場所に来られる人間になれるように、イメージを作れるように。
キャスター風に気取ってみる。
出来栄えを確認し、笑えてきた。一人でこんなことして楽しんでいる自分は、かなりの果報者なのだろう。一人の時間を楽しむ才能があることをありがたく感じる。
だめだ。寝てしまう前に風呂に入ってしまおう。
大きな浴槽に湯を張り、身を浸す。
思っていたように、ベッドの横にある大きな引き戸を開け放つと大きな窓枠の向こうに色とりどりのライトが見える。
大阪は大都市だ。世界の色々なところに行ったが、それらを見渡してもそうそうない、とてつもなく巨大な都市。この夜景を見るとさらにその思いが深まる。
こんなに贅沢させてもらえている自分はなんと恵まれた境遇なのだろう。風呂から上がり、ぼんやりとその夜景を見ながら、このままこんな日が続くようにと少し願ってみる。
が、そう願っていたのは本当に数分だった気がする。気が付けば、広々としたベッドに吸い込まれ、文字通り大の字になって、眠っていた。
翌朝遅くに、昨日と同じ場所でモーニングをいただく。
統一感のない品々を選びつつ、近く遠く連なるビル群を見ながら遅い公職を取った。
必ずその土地の名物をビュッフェ形式では食べる。今回はうどん。一口すすり、悪くはない、と思う。でもしかし、やはり近くのうどん屋の程よく甘辛くて濃く効いた出汁の旨さを思い出してしまう。なじみのものは、どうしても身内贔屓になってしまう。これは私には上品すぎる、と思おうとしていた。
平日の朝でも結構人がいた。私のようにこれから出勤の人は、それでもあまりいないように見える。みんな楽しそうに談笑している。
私はコーヒーを一口すすりながら、昼からの仕事のことを考え始めて、いや、この時間をもう少し楽しもうと強引に頭のスイッチを今へと戻す。
いい時間を過ごせている。心地の良い朝ごはんだと本当に思う。
昔、テレビなんかで見て、いいなぁ、あんな風になりたいなぁ、と思っていたその光景に、少しばかり近づけている気がする。もう一口コーヒーを口に含み、そろそろ出勤せねば、と未来の現実に再び思考を持っていかれる。
締めのデザートは、何ともおしゃれな小瓶。タピオカとマンゴーがとても好きな私にとっては理想的なスイーツ。軽くかき混ぜ、口に運ぶ。優しい甘さで口がいっぱいになる。
今日の仕事はまずは何から始めよう。会議もあったような気がする。
そこまで考えて、やめにする。
このスイーツを食べ終わってから、あの心地の良いロビーを通り過ぎてからまた考えよう。それまではこの美味しいハーモニーをとりあえず心行くまで楽しもう。
そしてもう一度、このバベルの塔のような高層階からの眺めをぼんやりと眺めた。この心地よさを忘れないように。
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