京都から北海道への旅④-今は旅のできないあの人へ-
2021年10月初旬
夜の京都散策-両川と渡辺屋-
街を歩くとこういう店にぶつかるから、京都の路地裏巡りはやめられない。細い路地を思いつきでフラフラと歩く。車でもなく電車でもなく、ただただ足で歩く。そう、文字通り足を使って本当に素敵なものに出逢うのを期待する。そして、鼻を使う、目を使う。大昔、狩猟をしていた時の能力のなごりかな、などと格好よく考えてしまうが、多分ただただおいしいものを食べたいだけ。
お目当ての洋食屋さんがあった。人も少ないこの時期だから偶然入れるかも、なんて甘い目算は見事に砕かれる。そらそやわな。超人気店、本日は予約で一杯、なんて札がぶら下げられていて、ガラスの覗き窓の向こうでは、もちろんこちらに一瞥もくれることもなく、せわしなく店員さんが歩き回っている。繁盛してはるなぁ。いつか縁があったら来られるだろう。
もう宿から2キロばかりも歩いた気がする。引き返すか、進むか。
スマホを見る。マップ上には記録してため込んだ、行きたいお目当ての店がまだまだたくさんフラグを立てていた。多分一生で回り切れないほど。情報過多の時代には、一生に一回は行きたいところがたまりすぎる。
ある場所にフラグが立てていた。新聞記事で読んだ店。ここに行ってみよう。コロナ禍、閉店時間がかなりまちまちになっているので調べてみると、現在は持ち帰りのみとの記載。残念。店内でゆっくり食べたかったが仕方あるまい。あのスタイリッシュな部屋でおばんざいを食べるのもまた、京都らしいかもしれない。
京都の路地は東西南北にきっちり筋が通っているので非常に歩きやすい。そして山地に住んでいる私にとって、平地の街は何キロでも歩ける錯覚に陥る。目指すお店の方位は、なんとここから真西に一直線。当てはあるものの、そぞろ歩きにちょうど良い。
車や電車だと結構多くの場合、きっちりと寄り道せずに目的地にたどり着ける。しかし、歩きの場合はなかなか難しい。特に京都はたまらない。誘惑が多い。ただの古い町家、と思っていたら、こじんまりとしたおしゃれでおいしい店が極上の味を提供していたり、ざっかけない造りの気取らないお店が安くてとびっきりのおいしさを堪能させてくれたりするからたまらない。
もう間もなく着く、という間際に見つけてしまった、というより、吸い寄せられてしまったのが冒頭のお店。暖簾にはホルモン、渡辺屋、とある。風情が旨すぎる。どうするか。大食いながら、胃袋はひとつ。うーん、迷う。決断の時、ながら、決断は先送りにしよう。途中とびっきり旨そうなラーメン屋も2軒、断腸の思いで通り過ぎたではないか。がんばれ、と鼓舞しつつ、先へと歩を進める。
両川は、件の店から歩いてすぐの場所だった。お惣菜というのは見ていて楽しい。そして全部食べたくなる。記事で取り上げられていたのは確かサバの味噌煮で、なんて思っていると、店員さんが声をかけてくれた。
嫌な世の中ですね、早くコロナが収まればいいのに、インバウンドの人たちが戻ってきたら、でも、こんなにのんびりはできませんよね、でも景気は良くなるし戻ってほしいですよね、なんて、もう何十回も話したような昨今のお話を一通りしてから、ようやくおかずの話となった。
いつもお店の人に、何でその店を知ったかについて話す。あれで知ってくれたのか、と喜んでくれる方が多い。今回も新聞の記事を見てきたことを伝えると、店の人が
「あの記事を見てきてくれたんですか、ありがとうございます。あれに出てたサバの味噌煮、ありますよ。これから仕上げるんで少し時間がかかりますが。」
それ、いきます。それが食べたくて来たんです、と告げて、それからおすすめを数品注文する。なんと、今から調理するものが結構あった。
なんだか明かりの具合のせいか、昔行ったアジアの屋台街を思い出した。全然違うのに、待ってる間のこの感覚が、あの屋台の大きな手鍋をふるって作られるおかずを待つ時間に似ている。ただ香りは、あのスパイシーなにおいではなく、この身によくなじんだ醤油のにおい。海外を旅すると各国のにおいがする。多分これが、日本のにおいなんだろう。
出来上がった総菜を包んでもらい、ホテルへと急ぐ。
いや、ちがうな。恐らくホテルへ直接は戻らない。もうあそこであれを食べる気でいるもんな。
これが出てくるとは嬉しすぎる。一人もつ鍋。旅をしていると野菜は極端に少なくなる。だからなんだかてんこ盛りの野菜を見るとうれしくて仕方がなくなる。これが渡辺屋のてっちゃん鍋か。くつくつと野菜が沈んでいくのを待つ。待つ間、お腹がどんどん空いてくる。
暖簾をくくると、おばあさんとその娘さんがふたりで切り盛りしている感じだった。すでに常連さんらしき四人組が出来上がっていた。店は卓が三つ四つばかり。多分一番、目の届く広さなんやろうなぁ、などと飲食店で働いたこともないくせに思ってみる。
品を書いた短冊はほんの十ばかりだったが、どれも本当においしそうで困る。手持ち無沙汰の待ち時間に生センを頼む。ここでは飲まない、と決めていた。アルコールにすぐやられてしまう私は量を飲めないので、ここでいくとホテルのラウンジで飲めなくなってしまう。飲み放題なのだから、あそこでワインを飲む。と固い決意をしていた。はずだった、のに。
世間は今日からアルコール解禁。隣の卓ではビールをガンガンあおっている。うむ、仕方あるまい。ハイボールお願いします、と頼んでいた。でてきたそれは、正直予想していたより薄かったが、これが自分には合った。弱いくせにピッチは速い。生センを放り込んでから一口飲むと、そりゃあ旨いわな、となる。
焼肉もいこうか、という誘惑にかられながら、総菜を思い出す。買ってしまったのが少し恨めしくも感じてしまったが、待て待て、そっちの方がメインの目的だったはず、と思い返す。
ようやく鍋に箸をつけられる頃合いになった。隣にはまた新しいお客さんが来ている。こちらも常連さんのよう。どうやら、若い京大出の家庭教師らしい先生と、その生徒とお母さんという構図。聞き耳を立てているわけではないのに、ひとり旅の時には隣の席の会話がBGMより鮮明に入ってくる。お母さんが、ここのポテサラはおいしいんですよ、と先生に薦めていた。では頂くしかない、と思い小声で、こちらもポテサラを、と頼んだ。
薄味の鍋は、やはり京都やなぁ、と思ってしまう。野菜がおいしい。でもモツは思ったより量が入っていなかった。しかしうまい。スープが濃厚でない分、いくらでも入ってしまう。
もつ鍋を食べる習慣なんてなかったのに、いつの頃からか店選びの選択肢の一つに入っている。モツと言えば鉄板焼きという感覚だったが、もつ鍋のそれはどがらい味がついてない分、噛むと甘みを感じられるから好きだったりする。この少ないと思う量は策略に違いない。食べきって火を止めたコンロには、まだおいしそうな出汁が残っている。モツの盛り合わせ一つとラーメン、と追加注文してしまった。頭の片隅で、総菜がよぎる。しかしこの組み合わせは、おそらく織り込み済みだった気がする。
モツだけ食べるのはうまい。それだけに集中できる気がして。無くなる手前で、まだ全部食べ切るのはもったい、と感じてしまうのは、まだまだ学生の頃とおんなじ貧乏性なんかなぁ。〆のラーメンを投入して、どれくらいで食べられますか、とおばあちゃんに聞くと、入れたら結構すぐに、とのこと。軽くさばいて食べる。予想通りにうまみを吸った麺は瞬く間になくなる。健康のためアカン、とは思いながらも、ひとり鍋やからいいか、と妙な言い訳をしつつ、スープもすべて飲み干してしまった。
話を聞くでもなく聞く、というのはこういう状況だろうか。隣の席ではお母さんが先生に相談している。
学校、高校から留学させた方がいいんでしょうかねぇ、医学部に幾とするとがやっぱりその方がいいのでは、と。関東の国立大学の付属校に行っているが、それだけでは将来が危ぶまれるらしい。最終的に学校にそもそも行く必要があるのか、なんていう話に至っていた。
どっかのユーチューバーみたいな話をしているな、などと思いながらも、今の世の中そんなもんなんかなぁ、なんて。自分の考え方も少しずつ変えていかなければ生き残れないのかも、と考えてた。
子どもの頃、若い頃に身に付けた価値観や常識なんて、おそらく数年、いや、ホンマに数ヶ月で変わる時代が来ているのかもしれない。今まで正義だったことが、翌日に悪になる。何が怖いって、その過去の価値観では許容されていた過ち、もっと言えば過去は正義であったことであっても、一度価値観が転換すると、すべてさかのぼって糾弾される。ネット社会ではその人が生きている限り、過ちが許されないのかもしれない。若気の至り、なんて言葉は、もう通用しなくなっているんだろう。
話題の中心となっていたその子どもは、あっけらかんと、でも友だち作りには普通に高校に行ってた方がいいと思う、楽しいし、などとなんだか私が一番まっとうだと思う答えを、母親や先生に対して返していた。案外大人の方が過剰に考えすぎているのかもしれない。
時短のために暖簾を下す時間が早くなっていた。さ、宿に帰って次のお惣菜を食べなければ。足がわずかに重い。たった一杯やのに、なんと酒に弱いのだろう。それでも歩く。歩かなければ、食べられない。後が控えている。まっすぐ帰ろう、と思ったが、なぜ人間、飯のあとに甘いものが欲しくなるのだろう。もうどこも店じまい中。京都らしいスイーツを食べたい。旅先でコンビニスイーツはちと淋しい。
そう思ってあきらめかけていると、お、開いてる店がある。チョコのお店。いつもならば高すぎて買わないであろう、そのお店の商品を見定めて購入する。女性へのプレゼント、とかなら格好つくのだが、これは男一人、ホテルの部屋で食べる用。いるかどうか聞かれた包装は、自分で食べるものですのでと丁重にお断りした。
再び、ザ・ゲートホテル京都高瀬川での時間-お惣菜とBEL AMERのチョコ-
デスクから見えた公園にはまだまだ人が憩いの時間を過ごしていた。みんな思い思いに。
ただ、ここでも四角い小さな画面を眺めている人がたくさんいる。丸めた背の向こうにほのかにともるスマホのバックライトを見ていると、蛍のようだと思ってしまう。甘い水に集まっているのか、はかない命を楽しんでいるのか。いや、違う。はかない命ならばこんなにみんな悩んだりはしないだろう。これからは自分の人生が百年続くかもしれない。そしてその中身は必ずしも、見通しの明るいものではない、かもしれない。
みんな画面の向こうに何を見てるんやろう。ただその刹那を流れる情報を、みんな必死につかもうとしているんやろか。甘い水はそこに流れてるんやろうかなぁ。
エレベーターへと乗り込む。閉まる前にもう一度だけラウンジに行こう。中を見ると、人はほどんどいないように見えた。少しだけでも飲みたい。さっき飲んだハイボールはまだ残っている。でも、と思い赤ワインを頼む。無料だと頼んでしまう癖はもうそろそろやめたい年齢なのだが。いつになれば格好いい、と言われる大人になれるのだろう。
外の席に持ってきてください、と頼んでガラス戸を押すと、夜の暗さに目が慣れて外に何組かいるのが見えた。数組の男女は年齢が全然違うけれど、みな仲良さそうに話をしている。ああいう風に、ゆとりのあるしあわせな人たちばかりならば、いい世の中になる気がする。そうはなれない人が今の日本にはたくさんいる。自分は独りではあるが、こんなに素敵な時間と場所にいられている。本当に幸せな境遇だと思う。
ワインが運ばれてきた。いつかどこかで出逢う、はずの自分のパートナーと乾杯しているつもりでワインを一口含んだ。ちょっとさみしい味がする気がした。
やはり酒に弱い。このままでは目の前が真っ赤になるのがわかる。中のカウンターに戻り、さらにグレープフルーツとアップルジュースをお願いした。クローズ間近に駆け込んで、さぞさもしい客に思われてるだろう。
空を眺めるとこの時間でも、当たり前ながら雲が流れていた。心地よい風が時々吹き抜ける。京都のど真ん中にいることを忘れかけるが、やはり星の少なさは都会の空だと、何気なく思う。流れる雲は形を変えて、直線で切り取られた枠の外へと消えてゆく。あの星を撮ろう、と思うとまた新しい雲が流れてきて星を隠す。意地悪をされているのかと思っていると、ちょうどいい感じに雲が晴れた。
心臓の鼓動がドクンドクンと大きくなっている。もうアルコールは飲めそうにない。もったいないが赤ワインをグラスの三分の一程度残す。ジュースで薄めてやらないと。まるで大学で初めて酒を飲む新入生のようだ。こんなところだけは、あの頃からずっと変われずにいる。
元学校であったであろう建物の窓は大きくて、パテオにやさしい光を流し込む。昔は子どもたちが大きな声で走り回り、学んでいたのだろうか。都市にはこれだけ人がいるのに、住んでいる人は、子どもたちは減っているのだろうか。こうして残された学校は、しあわせなのだろうと思う。
部屋に戻り、最後の大勝負。お惣菜三種はまさにおかず、という感じだった。お薦めされた酢豚にれんこんの天ぷら、そしてお目当てのさばの味噌煮。なんでも煮汁は継ぎ足し継ぎ足しされて、この店で大切にされてきたものらしい。
やはりサバからかな。さぞかし薄味の京風、と思い一口食べる。うむ。え、からい。いや、おいしい。かなりしっかりと美味しい。けどこれは単独ではいけない。もったいない。飯、飯が欲しい。けどもうお腹はかなりふくらんでる。コンビニで白飯だけ買ってこようかと真剣に悩んだ。でも酔っぱらっているし、とても行く気力が出なかった。もったいない。何とももったいない。
しゃくしゃくといい音をさせるレンコン。これまた一本気あふれる飯の友。しっかりと、まさにがっつりと濃い味がついている。あーあ、なぜあの時、締めのラーメンを我慢して白ご飯を買って帰らなかったんだろう、などと最もどうでもよい後悔じみたことを考える。両川さん、すみません。今度は必ず、ご飯と一緒に食べさせてもらいます。
ここまで食べておきながら、チョコレートは食べられる。
BEL AMERのお店で話を聞いていた時、大阪にもある、と知って一瞬買うかどうか迷った。しかし聞けばここだけの商品もあるとの事。それを包んでもらった。
こういう箱を取っておきたくなるのは、昭和だからなのだろうか。それとも今の人たちもこんな箱を見たら捨てるのはもったいないと思うのだろうか。自分一人で食べるのだから袋にがさっと入れてもらってもよかったのだが、と思ったが、この箱がなければ価値は半減以下だろう。外国の人なんかは特に、このパッケージに日本のイメージを膨らませて心から美しいと思うのではないか。やはり各国々それぞれの感性が箱や袋に表出し、人を楽しませる。
上品なチョコレートは食べるのがもったいなく感じる。一つ一つの手の込んだ装飾に、菓子職人というのは本当にすごいなぁ、と感心する。絵で描けと言われてもこんなデザイン、自分には絶対に描けないだろう。
一口で全部食べるのはもったいなくて、珍しく、半分くらいを噛んでみる。チョコにとろける部分のほのかな柑橘系の味が乗る。すごいなぁ。おいしいなぁ。昔は甘ければ甘いほどおいしいと思っていたのに、今ではこうして、いろんな味が少しずつ感じられるスイーツを本当においしいと思えるようになった。
ひとつひとつ、丁寧に食べる。口の中に放り込む、ということはこのチョコレートではできない。半分ずつ口に含むと、それぞれ中に入っているものや、上にトッピングされたものが程よく口の中で一緒になって溶け、おいしいまじりあいを作ってくれる。
甘いなぁ。おいしいなぁ。最終的に、甘い、という感想しか出てこない自分がちょっとさみしい。
考えてみると、甘いどころか全く苦みの塊であるカカオを原料にしているにもかかわらず、甘いという完全なイメージを植えつけられたチョコレートは、ある意味ものすごい発明だと思う。
カカオの真の深みを、自分が味わえているとは到底思えない。しかし、チョコレートを食べていると至極うれしくなり心浮くのだけはわかる。この甘い食べ物で多くの人がしあわせを感じるのだけは理解できる。こんなに小さなたった4粒の塊なのに、ほんっとうに甘くておいしくて、旅の自分をよりしあわせな気分にしてくれる。
ザ・ゲートホテル京都の素晴らしき朝食
このホテルのロビー階は極めて心地よい。この階にあるレストランで食事をしながら夜を過ごしてもよかったかな、などと愚にもつかない小さな後悔をしてみる。
同じ階を奥に進み右手にある入口を入ると、心地のよい接客の方に、屋内が良いかテラスが良いか尋ねられた。ちょうど気持ちの良い晴れた日。少し風を感じられるのもいいかなぁ、とテラスでお願いします、と言って案内された席。危うく歓喜の声が出そうになるのを何とか抑えた。
さえぎるもののないそのテラスでは東山を一望でき、その風景を風を感じながら堪能できる。少し向こうには鴨川が見える。鴨川からの風、と思うとなぜかより一層京都を感じられる気がするのは、田舎者だからだろうか。最高の景色ではないか。
「先日まで少し暑かったのですが、今日はちょうどいい気候でよかったです。」
と係の方に言われ、まさにそうだと大きくうなずいた。こんなに心地の良い空間でモーニングが取れるとは。実は最高の朝ごはんはルームサービスだと思い込んでいた。恥ずかしいもの知らずだった気がした。
もちろん季節、天候、そんなすべてが合わさった最高のタイミングだったからかもしれないが、ここで摂るモーニングは自分の旅人生の中でも上位に入る。吹く風にふと、天草の五足のくつでオレンジジュースを飲んだ、海の見えるテラスの風景を思い出した。あの雄大な自然はないけれど、ここから見える京都の風情はその価値に匹敵すると思った。
最初にコーヒーとオレンジジュースを出してくれた。
乾いたのどにまずはオレンジジュースを一気に、と思ったが、一口だけ口に満たして全部飲むのをやめた。ちゃんと絞ってくれている。おいしい。朝から生しぼりのオレンジジュースがつくのはうれしい。少しずつ飲んで、味わえる。
ひと心地ついて、遠方に目をやる。東山の心地の良い緑が目を潤してくれる。鴨川の流れが気持ちよい。なんと至福な時間か。
朝食の中でもフレンチトーストは絶品だった。
いろいろなタイプがあるが、好みは思いっきりしゅんでるものが良い。そしてここのフレンチトーストは理想そのもの。思い出しただけで、今からこれを食べに行きたいくらい。
ナイフとフォークで一口大に切るだけで、じゅわっと染み出る甘い漬け汁が、噛むとより一層、上品ながら強い甘さで口いっぱいに広がる。それとともにバターの塩味と濃厚さが後に追いかけてくる。これはおいしい!ほんまに好きな食感と味!うまい!うますぎる!
なかなか理想のフレンチトーストには出会えないだけに、ここで味わえてしまったことが少々悲しい。次はいつ来られるんやろか。
フレンチトーストを一口噛んでは、ゆっくりと味わい、最後にコーヒーを含む。苦さが口の中を元に戻してくれる。永遠に食べていられる気がする。実際は、あと3枚も食べれば一日分のカロリーをオーバーしてしまうだろうけれど。それでも多分、あと5枚は食べられる。
鴨川の岸にある道を、ランナーが一人、また一人と走る。
そのすぐ上の道には、バスが行っては視界から消え、また現れる。
京都はやはり都やったんやなぁ、などと全然関係のないことを考える。こんな贅沢な時間、平安の貴族も名のある武将も過ごせなかったはず。二条城や聚楽第は、このバルコニーより高かったのだろうか。何も競うことはないのだが比べてしまう、当時の権力者と。現代の庶民の精一杯の背伸びは、なんと贅沢で高いことだろう、と思った。
お金を出せば何でもできる、と思っているのは大きな勘違いである。お金をいくら積んでも、時代によっては全然できないことが山ほどある。
この地どころか日本をすべて手中に収めた秀吉でさえ、生涯、この口いっぱいに広がるフレンチトーストの強烈な甘さとおいしさを味わうことはできなかった。たとえ黄金の茶室は建てられても。
不毛な妄想。これも旅の醍醐味の気がする。こんなこと、家にこもっていては思いつくことすらないだろう。こうやって脳が刺激されて電気信号が山ほど流れる快感を得られるから、私は旅を続けているのかもしれない。そんな考えもまた、不毛なことなのだが。なんだか京都の深さにやられてしまっているのかもしれない。
旅は始まったばかり。そろそろこの心地のよいホテルの時間もおしまいにしなければならない。
京のダメ押し-中村屋の絶品のいなり寿司-
最寄り駅の三条から京阪電鉄に乗って南へ下れば大阪へと着く。しかし今回は、どうしても再訪したいお店があった。どうやら電車よりもバスの方が早く着くらしい。近くの停留所からバスに乗って北へと向かい、出町柳を東へ少し行ったあたりで降りる。
京大生だろうか、若者たちがゆっくりと東へと歩いている。バス停からほど近くの、どう見ても全くの普通の民家がその目指すお店である。
旅や食べることの主な情報源は本かテレビかネットになる。ただし本はさておき、テレビやネットの場合、その発信源や時にはスポンサーによってその情報の信憑性の高低が左右される。そんな中で、NHKはまだ信憑性が高いと自分では思っている。
しかし一つ問題がある。宣伝してはいけない、ということで、店名が一切出ないのだ。そのためもしも番組を見て、この店に行きたい、と思っても直接の名前がわからないため、周辺情報から探らなければならない。
このお店も、その当時のナレーションや訪れている地域の情報からネットを探って何とかたどり着いた。中村屋。予約専門の助六寿司といなり寿司の店。初めての前回、まぁ大したことないやろけど試しに食べたろか、とずいぶん高飛車な考えで訪れた。普通の民家の佇まいやのに、偉そうに予約制なんて、と思っていた。が、そのすべてにごめんなさい、といなり寿司を一口食べて心の底から思った。絶対に再訪しよう、という強い思いと共に。
からりと引き戸を開けると、あの時と同じご亭主が出てきた。名前を告げ、品を受け取る。
その時に、自分が以前来た話、その時にある番組を見て来たと話したがそれが間違っていた話、実はNHKのこの番組を見て探してきた、という話をした。するとご亭主が話してくれた。
あるおばあさんが京大病院に入院されていたらしい。そこで私が見ていたのと同じ番組を見ていた。私と同じく、強烈にここのいなり寿司を食べたくなったらしい。しかしネットを使うような年代の方ではなかったらしく、探しあぐねた。結果どうしたか。
なんとNHKに直接電話して聞いたとのことだった。NHKでは、そういう電話での問い合わせで情報を教えることを普通は差し控えているらしい。しかしおばあさんの余りの熱意に根負けし、教えた、といった内容だった。おばあさんの食い意地の勝利である。
京阪電鉄で出町柳から京橋へ。そこからJRの関空快速で関西空港へと移動する。一時間弱なので普段ならそんな贅沢はしないのだが、特にこのように広げるものがあるときにはプレミアムカーの席を購入する。一番前の席に座り、出発してそこそこなのに弁当の蓋を取る。
実はついさっきモーニングを食べたばかり。腹の中にはまだあのおいしかったフレンチトーストの感覚が残る。しかし、旅はフードファイト。これくらい食べられなければ、この後の北海道は制覇できない。
何の変哲もない助六弁当。これを馬鹿にしていた頃の自分に説教をかましたくなる。まずたくあん巻きから食す。じゃくじゃくとした歯ごたえが心地よい。うん、うまい。次に、花形であるお稲荷さんに箸を伸ばす。
大きな口を開けて一口で放り込む。ぬわぁ、と言いたくなる。じゅんわりと出てくるこのお揚げさんの出汁の甘みよ。少し強めの心底おいしい甘くよくしゅんだお汁が、ここまで一気に口の中に広がるお稲荷さん、他にはない。
もふもふと噛み続けると、一噛みごとにその甘さとお揚げの旨味で口の中が満たされる。関西風なので当然、酢飯に具は何もない。それがよい。ただただ酢飯と濃厚な甘みが口の中でまじりあう。くぅ。うめぇなぁ。人間、多分本当においしいものを食べたときには、うめぇ、しか言えない気がする。
実は初めて買ったとき、お稲荷さんだけでは売ってないか聞いて、確かそれはないと答えられた気がする。その理由が今日分かった。
お稲荷さんをほおばる。口の中に甘さと旨さが目一杯に広がる。その甘さを残したままの口にかっぱ巻きをほおりこむ。口の中がさっぱりとする。そしてたくあんで落ち着かせる。再度、濃厚なお稲荷さんを存分に味わう。無限ループ。日本のお弁当の、ある種の完成形。
おいしい時間はなぜこんなにすぐ過ぎてしまうのだろう。まだ中書島を出たばかり。丁寧に箱を片付ける。身近過ぎて普段はあまり車窓を眺めることがない京阪だが、プレミアムカーの席に座ると途端に旅の一風景になる。
橋本を過ぎた辺りから右手に土手が見え隠れする。淀川の土手だ。江戸時代、この川を遡るために人の手で船を曳いていた、という話を読んだことがある。恐らく京都まで一日仕事、下手をすれば数日かかったのではないか。それが今や、数時間もかからず移動できる。
旅をする人間にしては、なんとありがたい時代に生まれたのか、と一人感謝する。若い頃、江戸の旅を体験したいと思い五十三次を歩いてみたいと思っていた。しかし今の私はやはり、シートを倒してうつらうつらしている間に京橋に着くこの方がいいなぁ、と怠惰ながらも思ってしまう。
その昔、京橋には京都へ向かう起点となる橋があった。その起点へと、京都から夢心地で今、向かっている。
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