京都から北海道への旅③-今は旅のできないあの人へ-
2021年10月初旬
八瀬駅から先斗町へ
八瀬駅での乗車は初めてかもしれない。ひっそりとこんなに立派な駅舎が出てくると本当に感動する。行き交う人がほぼいないこの場所にも秋には一日何千人単位で人が行き交うんやろか。
お前はテツだ、と言われる時がある。しかし本人は、テツではない、と思っている。旅の一手段として乗る鉄道は大好きだが、何々系で何とかの車両で、なんてのは全然わからない。だから思い出として撮るのが好きなだけなのだが、やはり気が付くと何枚も列車の写真を撮っている。
そして、いわゆる「撮り鉄」と言われる人たちはあまり好きではない。妨害するのではなく、もっと鉄道を愛してくれよ、と思う。邪魔するくらいなら、写真を撮るだけでなく、乗って、旅を感じてくれよ、と。駅員さんの業務や交通、地域住民の邪魔になるくらいなら、カメラ片手にただただ列車に揺られればいいではないか、と。
なんて。くだらないこと書いてるなぁ。こんなこと書いてる時点で、少しばかりテツなのか?と思ったりしないでもなく。
梁や柱にものすごく魅力を感じる駅舎がある。リベット、というのだろうか、武骨なねじの頭が出ている。まさに鉄を組み合わせて作った、という風情の駅は、本当に鉄道が都市の誇りであった時代の名残のような気がする。都市部ほどこういう駅をどんどんつぶしてどこにでもある無味乾燥な駅になってゆく。
待ち時間、長いなぁ、と思っていてもいつも写真を撮っている間に出発間際となってしまう。もう二度と乗り遅れたくはないので、駆け足で乗り込む。
出町柳から京阪電鉄へと乗り換え三条へ。駅を出て鴨川を西へと渡る。日暮れかけた川下に目をやると歌舞練場があった。こんなとこにあったんや。
大学生時代を京都か東京で過ごしたかった私にとって、ここは永遠に、ある種の嫉妬とあこがれがないまぜになった場所なのだと思う。憧憬、というのだろうか。なかった自分の人生に思いを馳せてしまう。
ぽつぽつと鴨川の土手にカップルが等間隔に並び始める時間。あそこに本当に好きな人と2人で座るのが、あの頃の夢だった気がする。気がする、ではないな。あの頃からずっと、そんな他愛のないことが自分のあこがれなんやろう。
酒がとてつもなく弱い。そんな私にとって、先斗町は少し心理的に離れた場所である。素敵な飲み屋がこんなにたくさんあるのに、飲めない私は一人では入りいくい。この時間なのに、もう気持ちよくなった人たちが二人で、三人で歩いている。非常に楽しげでうらやましくなる。一人であることのわずかな淋しさを感じてしまう。
行き交う人は、コロナのせいで全盛期の半分以下のように思える。前の通りにここに人が戻るとき、また京都は私にとって少し居心地の悪い込み合った街になるのかもしれないなぁ、と考えつつ、それはやっぱり旅人エゴやな、と考え直す。やはり儲けられる方がいい。今の日本は経済的に弱くなりすぎていると思うから。経済の事を考えながら先斗町を歩くなんて、なんて無粋なんやろう。やはりまだまだ先斗町が似合う男ではないな。
ザ・ゲートホテル京都高瀬川へ
以前このホテルのエントランスに入った時に、絶対にこのホテルにはいつか泊まろう、と思った。北海道に行く予定にもかかわらず、その前に1日休みが取れ、そこに無理やり京都の行程に入れたのは、このホテルに泊まりたいから、という理由があった。
学校跡をすばらしく活かしているこのホテルを見ていると、歴史を活かすことが出来る人がたくさんいる場所に文化を生み出す力が芽生えるのだとつくづく思う。
大阪は特に最近、つぶすことは得意だが活かすことが全く下手くそになってきている気がする。それは取りも直さず、文化力の低下だと思う。自分を含む庶民の文化意識の低下であり、その意識の低下した庶民が選んだ結果である、質の低下した政治家の中にある文化をないがしろにする感性のせいだとつくづく感じる。
フロントが最上階にある、というのはすさまじいほどセンスが良い。こういう宿は今まであまりなかった気がする。コンラッドのように、もともと高層階をホテル棟として使っているので、たまたまその一番下の階であるフロントも20階以上、というところはある。
けれど、単独の建物であるホテルでこんな眺めのいいフロアにフロントがあるとは。思わず見とれて、この最上階で食事をとってしまいたいと思った。でも今晩は、やはり京都の町を歩きたい。
エレベーターで宿泊階へと下りる。スタイリッシュ、という言葉はチープだけどとても好きだ。自分のセンスでは、スタイリッシュに暮らすこともスタイリッシュなものを作り出すこともなかなか難しい。だからスタイリッシュな場所に出会ったとき、たまらなくそのセンスに感服しとても心地よい気分になる。廊下ひとつとっても、心地よい感じのするホテルとそうでないホテルがある。そしてここは、写真を撮りたくなるホテルだ。
部屋に入る。なんとコンパクトで必要なものだけがまとめられた部屋なんやろ。そんなに広くはない、と思う。ただ、すごく広く感じる。設えてあるものは、とても簡素。でもいるものはすべてある。ただし、シャワーだけ、というのは残念やなぁ。こてこての日本人である私は、やはり毎日浴槽につかりたいから。
公園に面して机が設置されていて、PCが使えるようになっている。こんなところで文を書けば、さぞはかどるだろう。自分が在宅勤務が可能な職業なら、なんとかこのホテルに数日こもって仕事をするだろう。
ホテルに隣接している眼下の公園は、市民の憩いの場のようになっている。小学校だった頃の校庭のあとだろうか。このホテルの守衛さんが門を閉めるまでは誰もが時間を楽しめるようだ。
夕暮れ過ぎの芝生の上で、カップルが仲良さげに寝転がりながら談笑している。その隣で、お母さんが子どもを駆けているのをうれしそうに眺めて声をかけている。その兄妹は、全力で駆けてふと振り返り、お母さんに笑いかける。
門のすぐそばのモニュメントのようなものに上に、女子高生が自分のスマホを立てかけている。5人でダンスの練習だろうか、何回も何回も、同じ振り付けを繰り返しては、そのスマホの周りに集まって動きをチェックしている。各々が気ままに過ごす素敵な時間。みんながしあわせそうに見える場所というのは、たとえそれがいっときだとしても、かけがえのない憩いの場所だと思う。
コーヒーメーカーのあるホテルは、完全にカフェイン中毒の私にはうれしい限り。カプセル式のコーヒーメーカーを見ると、ついつい全部飲んでしまおうと意気込んでしまう。この辺は学生時代から全く変われない。いい歳の大人になったのに。
一杯入れて、ベッドの端に腰掛けて公園を見ながら一口つける。こういう時間はとても大切だとつくづく感じる。
コーヒーは、味もにおいもどちらも本当に好きだ。ブラックコーヒーを生まれて初めて、おいしい、と思い飲めるようになったのは、大学を卒業してすぐに勤めた会社の部長に連れて行ってもらった、とても品の良い喫茶店であった。会社のすぐ裏にあったグランタスのカウンターでマスターが入れてくれたコーヒー。それまでブラックなんて苦くて飲めたものではなかった。何でみんな格好つけてあんなもん飲んでるやろ、と思っていた。
マスターはシロップと一緒にアイスコーヒーを出してくれたが、その時に
「もしよろしければ、最初の一口はブラックで飲んでみてください。」
と声をかけてくれた。私と同じくお酒の弱かった部長はコーヒーが好きで、同じように、一回試してみるよう勧めてくれた。
一口飲んで、びっくりした。えぐみがなくて、本当にすっと、意外なくらい心地よくのどを通った。甘み、のようなものを感じた。初めての体験だった。うまい!おいしい!もしかしたらコーヒーを飲んでそう思ったのはその時が初めてだったのかもしれない。
美味しくないのをごまかすために今までシロップとクリームを入れていたのではないかと思った。それ以来、缶コーヒー以外では、すっかりブラックで飲むようになってしまった。今思えば、就職するまでお子ちゃまの舌だったんだなぁ、と思う。
コーヒーのカップを片手にぼんやりしていると日が暮れてきた。いかん。時間が無くなる。ただその前に、せっかくなので宿泊者専用ラウンジに行ってみよう。確か時間が限られていたはず。コロナのせいで、ゆっくりできる時間が短縮されている。でも、そのコロナのおかげでこんなに素敵なところに泊まれている、というのもあるのだが。なんだか少し皮肉な話だ。
ラウンジの入り口を入って、これはまずい、と思った。これまた出られなくなる空間に違いない。この時期でなければあの料金では絶対に泊まれない、と確信した。なんやこの素敵さは。ドリンクはオールインクルーシブ。もちろんアルコールも。それをこの空間で楽しめるなんて。お酒に強ければ。こういう時にいっつもわが身を恨む。
ふと右手の奥に目をやると、上品そうなカップルがワインのようなものをゆっくりと楽しんでいる。うらやましい、という感情を抱くのは嫌なのだが、本当にそう思ってしまった。一人旅が好きなくせに、こういう瞬間だけは独りであることを強烈に感じさせられる。
カウンターにはホテルの女性がいらっしゃって、好きな飲み物をサーブしてくれる。これだけお酒がそろっているから、見栄を張ってワインでも、と思ったが、結局頼んだのはリンゴジュース。なにやってるんだか、と思いながらも、ソファで飲んでいるとなんだか自分がお金持ちになった気分になる。何と単純な思考の脳みそなんやろ。
どうやら外にも出られるらしい。グラスを持ってガラス戸を開けてみた。
長居の予感は的中した。この場は離れられない、ずっといたいと思う空間。どうしようもない。学校という建物をここまで美しく活かしきるとは。パテオには数人が座れる椅子があった。そして真ん中に、薪のくべられた丸い炉がある。空はもう間もなく夜になろうとしている。
ぼーっとしていると、ホテルの女性の方が、
「今から火をつけますので。」
と言った。まさか本当に火をくべてくれるとは思ってもみなかった。ホテルという場所で、火を吹き抜けの空間で見られるなんて演出、なかなかない。
少々てこずっている様子。しゃしゃり出て、火をつけましょうか、なんて言おうかなぁ、と思ってると、やがて男性の方がやってきて無事炎が上がった。少し好みだった彼女と話す機会はさっさと逃げていった。
炎を見ていると頭の中のいらないものが燃やされるのだろうか、ぼんやりとからっぽにすることができる。ひとりだったパテオには、いつの間にかカップル数組と、同じように一人でいるお兄さんがパソコンで何やら打っている。仕事だろうか。なんだか格好よく見える。いいなぁ、どんな仕事をしているのだろう、なんて思ってしまう。そしてまた火に目を移す。
日常生活で、こんなに炎を見ることは今はほぼない。昔、キャンプのリーダーをしていた頃のキャンプファイヤーを思い出した。炎の周りで、キャンプに来ている子どもたちを楽しませるために色々なゲームをする。ゲームの進行が下手だった私は、キャンプファイヤーが実は苦手だった。それでもたまに盛り上がった時は、やっぱり心がわくわくするくらい、うれしかった。人の喜んでいる顔を見るのが、やはり好きなのかもしれない。誰でもみんなそうなのかもしれないが。
空をのぞくと、現代芸術のようにきれいに直線で区切られ、雲が流れている。こんな風景、ありきたりなのに違う場所でみるととても新鮮に眺めることが出来る。星はまだ出ていない。おそらく星が出るまでここにいたら晩飯を食い逃してしまう。まだまだいたいが、ここは一旦出なければ。えいやっ、で何とか席を立ち、パテオを出た。
外に出る、はずだった。が、パテオから学校校舎側を見ると、妙に惹きつけられる空間がわずかに目に入ってしまい、ふらふらと足を運んでしまった。寺子屋をイメージしたようなその空間は、まさに京都の風情そのものであった。新しい空間であるのに、なぜこんなに懐かしい心地よさがあるんだろう。この設えをするセンスって、いったい何なんやろう。
人々が集えるように、というコンセプトがあるらしい。どうやらヨガなどのイベントに使われるらしい。心地よい空間作りが完璧になされている。あのパテオからここに来ると、非日常から、違う形の非日常へと時間を超えて渡り歩いている感じがする。ここに泊まれたことは本当に幸福やと感じる。
渡り廊下から一階のロビーが見える。ロビーと言っても構造上はホテルの入り口の外に当たる。そのためお昼には、ここでくつろいで談笑している人が結構いる。お土産を持ったご夫婦や、ちょっとしたサンドイッチを片手に本を読むお姉さん。そんな人たちが、自然に時間を過ごせる。
さっきの公園もそうだが、私と公共との境目をうまく作っているとつくづく感じいる。もちろん宿泊者だけの憩いの場所がある。ただそれに加えて、市民や観光客など、いわゆる「ソト」の人に対してもゆるやかに門戸が開かれている。
京都はやはり奥深い。来るたびに感服させられる。どうして自分は意地でも京都で学生時代を過ごさなかったのだろう。めったに人生を後悔しないが、京都の深みを感じるたびに、あの当時の自分を少なからず叱咤したい気分になってしまう。
さ、もう本当に時間がない。こんどこそ街に出よう。
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