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アメリカ大学院博士課程⑤ 博士課程生活1年目

こんにちは。ハイパー高学歴ニートのD-Jayです!
私は、2022年8月から米国アイビーリーグ工学部のPhD(博士)過程に進学をしました。
その経験に関して、全9回にわたり、記事を書きたいと思います。
5回目の今回は、ついにアメリカで博士課程を始めた私の1年目の生活をお話ししたいと思います。

前回の記事はこちらからどうぞ


リアルな博士課程生活とは

初年度は、授業と研究の両立が求められました。
平日は授業に朝から出席して、授業が終わる3時や4時ごろから7時ごろまで研究をするというような生活でした。

アメリカと日本の大学を比べると、授業の課題の量と難易度が雲泥の差です。
週末は、課題や研究をするので精一杯でした。

ここで、日本の大学の話をすると、、、
私は、旧帝大の工学部でしたが、1年で4週間しか勉強していませんでした。
前期のテスト前の2週間と後期のテスト前の2週間だけですね。
そのような楽勝生活を4年間送っていました。
さらに、日本の大学院進学後は、テストがない授業ばかりで、出席したら単位がもらえました。
渡米した直後は、学部生が毎日図書館で必死に勉強している姿に驚きました。
日本の大学の図書館は、テスト期間以外ガラガラだったので。

ということで、私の博士課程生活1年目は、平日も週末も勉強と研究のみで1日を終えるのが基本でした。

生活環境

大変不便な生活を強いられました。
大学院生の1年生のほとんどは、寮に住むことを強制されるのですが、エアコンなしの部屋だったので、夏は死にそうでした。
また、Walk-Trough Doubleと呼ばれる部屋のタイプに住むことになりました。
これにより、私はルームメイトの部屋を経由しなければ、私の部屋に辿り着けませんでした。
私の部屋は大変狭く、4畳ほど(クローゼット含む)しかなかったので、大変窮屈でしたし、トイレやシャワーのたびに、ルームメイトの部屋を経由しなければならないのがストレスでした。
また、キッチンは寮全体で2個、洗濯機も共有だったので大変不便でした。

部屋はハリーポッターの部屋を10倍古く・ボロくした感じ

日々の楽しみ

基本的に大変なことばかりの1年目でしたが、楽しいこともありました。
入学した当初は、歓迎を兼ねて無料の食事が振舞われたり、たまの休日に都会に遊びに行ったり、友人たちとテニスしたりしました。

また、同じ大学に通っている日本人の友人とワールドカップやWBCをテレビで見たりしました。

1年目が終わり、夏休みに入ると授業がなくなるので、時間ができました。
夏休みは、友人とMLBの試合を見たり、遊園地に行ったり、学部対抗のソフトボール大会に出たり楽しく過ごしました。

指導教官ガチャ

私の大学院では、出願するタイミングで1人の教授を指導教官として選ぶ必要がありました。
博士課程の学生と指導教官は、師匠と弟子、上司と部下のような関係性です。
基本的に、研究は指導教官と行うため、良い指導教官に当たることが、良い博士課程生活、良い研究成果に繋がります。
しかし、教授が良い指導者なのかは、ガチャのようなもので、実際に研究室に入らなければ分からないものです。
私は、この指導教官ガチャにハズレてしまいました
私は、指導教官を人として全く信頼・尊敬できず、一緒に研究をする上で、精神的に大変苦しい思いをしました。
指導教官との良い思い出は皆無です。
以下に、パッと思い出せた指導教官・研究室のヤバいエピソードを殴り書きしておきます。

  • 基本的に指導教官が私にどのような研究をしてほしいのか良くわからなかった。後に分かったのだが、好きなことやっていいよ見たいな雰囲気出すけど、これをこういう風にやれっていう絶対の考えが彼女のなかにあり、いくらこちらが主張しても、彼女の意見を変えることは無理だと分かった。

  • 私が入学するタイミングで、2年生になるはずの博士課程の学生が退学していた。

  • 博士課程で入学したが、指導教官に強制的に修士号で大学を去るように言われた学生が過去にいた。

  • クリスマスイブの朝にミーティングをぶち込まれた。

  • 全然ミーテイングの時間を作ってくれないくせに、久々に会って、研究報告すると、そうじゃないと怒られる。

  • あれやれ、これやれと言われ。なぜか数年前からのプロジェクトをやるように言われ、自分の研究ができない。あとで分かったが、退学や修士号で卒業させられた学生の埋め合わせの仕事だった。

  • 夏休み前に、私が頑張って連絡しまくって、久しぶりに会ってもらうが、私の研究に興味がないように見えた。ミーティングが廊下で10分くらいで終わった。

  • 夏休みは毎週3時間のグループミーティングで拘束される。誰かが指導教官に詰められているのを見る時間。

  • 夏休み前のミーティングで、この結果を基に論文を書けと言われたので、論文を書き上げたが、お前は何をするべきかわかっていないとキレられる。論文の書き直し・結果の差し替えを命じられる。

  • 教授がさらって読んで理解した気になったペーパーを参考にするように言われる。それは教授の勘違いで、実際はそのようなことはしていないと主張しても、そんなことはないと、キレられる。あと、その論文がすぐに私のパソコンで表示できないと、さらにキレる。

  • Pythonを使ってデータ処理したら、エクセルでやれとキレられる(教授がコードを理解できないから)。

  • 夏休み明けに、博士課程がきつかったら修士に変えられるよと言われる。

  • 私が書いた論文の初稿のチェックをお願いしたが、結局卒業まで1年以上放置された。

  • 授業で研究の発表をする必要があり、過去のプロジェクトで自分が貢献した部分を発表したら、あれはお前のプロジェクトではないとキレられる。その結果、なぜか単位をくれなかった。

私だけでなく、私以外の研究員や他の博士学生も同じような仕打ちを受けていました。
最も驚いたのは、そのような状況でも他の大学や研究室に移らず、彼女のもとで長期間(5年以上)働いている研究員や学生がいることです。
自分の自尊心を攻撃してくるような上司のもとで、働ける彼らは私にはとても不思議でした。

あとで分かったことですが、彼らの多くは研究室を移動しないのではなく、移動できないのだと思います。
私の研究室はあまり実勢のある研究室ではなかったので、そこで採用される研究員は正直言って、大したことありませんでした。
なので、他の研究室や大学に応募してもなかなか採用されないという話を聞きました。

終わりに

アメリカの大学院は勉強ばかりで、日本の大学とのギャップに苦しみました。
また、指導教官とも上手くいかず、精神的に非常に苦しかったです。
しかし、そのような生活だからこそ、日常の小さな幸せを大事にすることができました。

全米での博士課程の卒業率は50%だと言われています。
退学する学生の最も多い理由が、金銭的な理由だそうです。
しかし、私がいた大学院の博士課程はアメリカで最も金銭的な補助が充実した大学院だと言われていました。
それでも博士課程の大学院の卒業率は70%ほどでした。
退学した学生のほとんどは、指導教官と上手くいかなかったからです。

国内・国外問わず、指導教官との相性は、大学院進学をする際の最重要事項です。
大学院に進学したい人は、希望する教授の研究室の学生と同じ学部だけど違う研究室の学生から話を聞くようにするのをお勧めします。

最後まで、お読みいただきましてありがとうございました。

アメリカでの博士課程2年目が始まります。
第6回目の次回は、博士課程2年目を私がどう過ごしたかお話したいと思います。
生活全般と博士から修士への変更を決める際の葛藤を中心にお話ししたいと思います。

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ハイパー高学歴ニートD-Jay
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