大切なことの伝え方
昔のことを呟きたいのだが、付き合っていた相手を「カノジョ」と呼ぶことはなくて、「恋人」と呼ぶようにしていた。
もし喧嘩をしてその中で恋人を咎めたかったときも、「オレのカノジョなんだから」と言うことはなくて、「ぼくの恋人なんだから、、、」と言うようにしていた。
文語体っぽい。
そこには理由がある。
「カノジョ」という言葉の響きのなかに自分の所有物として軽視しているニュアンスがあるような気がしていたからだ。これが「分かる、分かる」と言ってもらえる感覚なのか分からないけど、どんなときも「カノジョ」という名称は使わなかった。
友達といるときも、家族がいるときも。
「カノジョ」ではなく「恋人」と呼ぶ。すこし鼻に付く言い方のように思えるけど、いつまでも1人の人間として隣にいて欲しいと思ったから。
そして、
恋人と別れることになったとき
「あなたが大切にしてくれていたことは伝わっていたよ」と言われた。その感謝がどこからきているのか分からないがありがたかった。
まあ社交辞令かもしれない。
そもそも「カノジョ」と呼ばないでいたことがその理由だとも思っていないけど、要は、小さな事を積み重ねた結果だと思う。
そして僕らの暮らしはそういったことで溢れている。一見意味がなさそうだけど、それを積み重ねていてそうするしかない。
たとえば「大切にしている!」というような大事な気持ちほと、言葉で伝える方法を取るのではなく小さなことを積み重ねるしかないのだ。
遠回りだけど結局一番伝わる。
僕らは、
ゴミを分別する、深夜にはドアをそっと閉める。野良猫を見かけるとふと微笑む。
そういったことを繰り返している。
きっとnoteを書き続けているのもそう。それだけでは意味がなさそうだけど、積み重ねていくといつか意味の伝わるモノになるのではないか。
丁寧に暮らしていくしかないのだ。結局人生というのは結果がすぐに出ないものばかりなのだから。