「あのとき優しくできたこと」に救われる日がいつか来る
以前、優しくありたいという文章を書いた。
優しくありたいと思うこと自体が優しいということだと、いろんな人から言葉をもらい、改めて自分でも考えてみた。
結局のところ、僕がなんで優しくありたいのかと言うと、自分自身が自尊感情低くてコンプレックスにまみれて生きづらさを感じているこじらせた人間だからにほかならない。
そう見えないように、そんなことを気にせずに楽しく生きている演技をして生きていて、でも演技なんて崩壊してて、自分のボロボロの内面が見え隠れする瞬間がもう隠せない。
それでもそういうときにちゃんと支えてくれるような人たちにいつの間にか囲まれていた。
つまるところ、僕の唯一の才能だと思っているところは、そういうところで。本当にいい人たちに囲まれて生きている。
だからこそ、生きづらさを感じている人たちにとって優しくありたい。周りの人によって生かされているからこそ、優しくありたい。
それは自分自身を救うことにも繋がるから。優しさを少しでも残していきたい。自分の心ん中がどんなにボロボロになって荒んで自己嫌悪しても、周りの人への愛は止めないし、止まらない。それらは全部美しいから。
一方で、「優しさ」と「甘さ」をはき違えることしたくない。甘さは、その場では誰かを傷つけなくても、回りまわって誰かを傷つけることがあり、それは結局優しさではないと思うからだ。
人に対して優しくあることは、直接的に誰かを救うことにつながるかもしれないけれど、同時に、間接的に未来の自分を救うことにもつながる。施しをしてやったみたいな傲慢な自尊心ではなく、「あのとき優しくできた」ということに、いつの日か救われるときがくる。
「大切な思い出って支えになるし、お守りになるし、居場所になる」『anone』1話
思い出は、人のことを救う。だからこそ、自分を救うための愛ある思い出たちを残していきたい。きっと、僕は自分を救うために文章を書いている。だったらやっぱり、手段は書くことしかない。書くことによって救われてきた人間なんだから、救う方法は書くことしか知らない。いまの自分を救うんじゃなく、いつかどこかの自分を救いたい。そして僕を救う文章は、きっといつかどこかの僕じゃない誰かを救うことだってあるはずだ。「誰かの身の上に起こったことは誰の身の上にも起こる」ことだと、坂元裕二は著書『往復書簡 初恋と不倫』で書いていたけれど、誰かにとっての救いが、他の誰かにとっての救いになることだってあるはずだ。だって、世界はどうしようもなく地続きなのだから。
へったくそな文章を書き散らしながら、それでもなお、優しくありたい。
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