【企画小説】二月七日、処刑開始。
昼下がりの喫茶店は、暖房がよく効いていて暖かかった。心地良いはずなのに、私の手は滴るほどの汗を握っていた。
「あなたとは、結婚できない。絶対に」
声が、震えていた。あまりにも、みっともないくらいに。
彼は、何も言わなかった。まるで何かを考えているようだった。それでも一分くらいしたら、その薄い唇が開いた。
「俺達が付き合いだして、あとちょっとで一年か」
穏やかな声だった。緊迫している私が馬鹿馬鹿しく思えるような、それくらい呑気な声。だから私も、拍子抜けして「うん」と普通に答えてしまった。
「懐かしいよなぁ、覚えてるか? お前さ、俺に告白する時手めっちゃ震えたろ。高校の時の方の話な」
「自分から告白してきたくせに、って言いたいの?」
「んなわけねぇよ。実際付き合ってみて分かったこともあったんだろ、それくらいは理解してる」
思いの外すんなりで、さすがに驚いてしまった。
今でも鮮烈に覚えている。私たちがまだ高校生だった頃、私はこの男に一目惚れした。それ以来の時間を、この男への恋で溶かした。気持ちが抑えられなくなったから下駄箱に手紙を入れて呼び出したら、当時彼女の居た彼は『彼女と別れたらな』とだけ返した。すると一年前、『彼女と別れた』と突然連絡が来て……まだ気持ちの冷めていなかった私は、結局こうなることも分からずに飛びついた。
彼の持つティーカップの中は、まだ熱を持っている。それを何とも無いように口に含むと、ティーカップはソーサーへと戻った。
「なあ、何で俺のこと好きになったんだよ」
すぐには、答えられなかった。確かに顔を含めた容姿も、声も、所作も、何もかもが綺麗だった。そういった、いわゆるガワから好きになったのは確かだ。そしてそれは、十二年という時間が経ったからこそ美しく飾られている。
そして何より、彼の自由さが好きだった。先生や規則に縛られず奔放に振る舞うあの自由さに、憧れていた。
うまく答えられない私に「もういいや」と彼は返した。
「別れたいんだもんな? いいよ」
思わず「えっ」と声が出た。そんな私に、彼は「何だよその反応」と薄く笑う。
「お前が言い出したんだろ。お前が嫌だって言うなら、もうどうしようもねえし」
「ごめん」
「謝るなって。そんじゃ、俺行くわ」
そう言って、彼は立ち上がった。その目は、暗く澱んでいたように見えたけれど……私に何かを言う権利なんて、無かった。
「ああでも、もし互いに三十になるまで独身だったらさ。そんときゃ結婚しようぜ」
あの日のように、軽くそう言い残して彼は喫茶店を出て行った。
私が彼のプロポーズを断って、その流れで当然のように破局して。それからあっという間に十日が過ぎた。
私と彼は同じ会社に勤めてこそいたけれど、そもそも部署が違うので大きな会社なのもあってか顔を合わせることはなかった。それは、救いだった。だというのに。
「そういやあんたの元彼、海外赴任決まったんだってね」
まさかの同僚からの言葉に、私は言葉を失った。そんな私を、同僚は愉快そうに見る。
「やっぱ気になる? でも前から話は出てたらしいよ」
それは、知っている。付き合いたての時に上司から打診を受けた、と溢していた時があった。私は「離れても気持ちは保てるのかな」と深く考えずに言った。あの時の彼は「さあな」とだけ返したのを覚えている。だから、これは喪失感というより……やはり私を逃がさないために残っていた、という答え合わせによる重みによる息苦しさだ。
「……いつ行くんだろう」
「辞令出るの月初だし、それに合わせるんじゃない」
あと一週間も無い。けれど、だからと言って彼に会う気も湧かなかった。十二年前なら、彼がどこに居るかを探し当ててでも眺めに行ったのに。この時間の中で、私も薄情になったものだ。
「ねえ、何で別れたの?」
関係を知る全員に聞かれたけれど、いつも私は答えられなかった。それでも、何故好きになったかよりは幾分言語化しやすい理由ではあるんだけれども。
このやりとりの後一週間して、同僚の予想通り辞令が発表された。そしてその日、同僚達の噂で彼が辞令発表の三日前には日本を発っていたと知った。
彼が日本からいなくなって、一年が過ぎた。私と彼はもう連絡を取ってもいないし、今どうしているか私からは知りようもない。そして、知る気もない。
でも英語が堪能でコミュニケーション能力のある彼のことだから、きっともうあちらで恋人を作っていることだろう。そう考えると、さすがに十三年前の思い出がちくりと痛んだ。あの時の思い出は、結局まだ輝いているままだ。
『そろそろ結婚とかさぁ、考えてほしいわけ』
実家に帰る度母にそう言われるのが、うざったくてたまらなかった。そもそも実家とは、ずっと微妙な関係が続いている。私の全てを管理したがる両親は、自分たちの理想のレールにどうにか私を載せたくて必死そうだった。思春期頃は気持ちでしか抵抗できなかったけど、社会人になれば「仕事」の一言で逃げられるようになったから本当によかったと思っている。
……別に、結婚したくないわけじゃない。ただ、どうしても。十三年前の彼以上に惹かれる人が居ないだけだ。
実家への帰省を終えて以来、初めての仕事の日。ろくに話したことがない、先月の辞令で部署異動してきたばかりの先輩が「今夜空いてる?」と声をかけてきた。
「その、この部署の人間関係とか知りたくてさ」
誘い方下手すぎるだろう、とは思ったものの彼と別れた以上断る理由もなかった。だから、頷いた。
その日の晩、先輩は私にしこたま酒を飲ませようとした。うまくかわしたけれど、結局行き着いたのはホテルだった。彼と別れて初めての行為は、二回で終わった。運よく終電が残っていたのもあって、二人して慌ててホテルを出た。
何も、心を動かされなかった。やはり私の中では、あの十三年前だけが輝いている。
先輩と私が行為をして、一週間が過ぎた。休憩室に私を呼び出した先輩は、項垂れていた。
「何でだろうな、俺今の部署結構気に入ってるんだけど」
まさかの、部署どころか県外の支社にまで異動するとのことだった。さすがに息を呑むと、先輩は苦笑した。
「来月だってよ、これでバイバイになっちゃうな」
その言葉に、私の中で熱が一気に冷めていく感触がした。別に火が点いていたわけでもないせいか、ただ氷を投げ込まれただけのような感触だった。
そして先輩はあっさり異動した。先輩が最後にうちの部署に出勤した翌日、私のデスクには小さな包みがあった。一応誰にも見られないようにしながら包みを開けると、まず出てきたのは一枚のカードだった。
『あと一日で二十九歳、おめでとう』
カードの下には、新品の小さな玩具が入っていた。やっぱりクソだったんだな、というのが感謝より先に出てきた感想だった。
先輩が異動して、約一年が過ぎた。先輩は異動先で出会った既婚後輩社員を孕ませて泥沼調停中らしい。どこまでもクソだ。しかも私とのことも、いわゆる「男の下ネタ」の話題として様々なところで言いふらしていた。来世はミミズあたりに生まれ変わってほしいと強く思う。
先輩が異動したのは、当時支社に出来たばかりの部署に呼ばれたかららしい。海外から支社へ異動した部長とやらが、人間関係やスキルなどを吟味し選んだそうだ。その結果がそれだなんてお粗末でしかない。あんなのを選ぶ支社の部長ってどんな人だろう、って事情を知る同僚と笑いながら話した。支社の人員の詳細なんて私達の部署に回ってくることなんてなかったから、こんなに呑気だった。
今年は異常気象が多くて、今日に至っては記録的な大雪だ。そのせいで公共交通機関は乱れに乱れ、出勤せず有給を消費させられることになった。案外急な休日ってやることはないくせに何故か元気だけはあって、ひとまず掃除をすることにした。台所や風呂を人生一と言えるレベルにまで磨き上げた頃には、もう公共交通機関は復活しているというニュースが入ってきた。明日はいつも通りの出勤になりそうだ。
自室の掃除は台所や風呂より曲者で、部屋ごとひっくり返しても終わる気配が無かった。しかし、一番の原因は。
「懐かしい」
高校生の時の卒業アルバムを開いてしまえば、もうおしまいだった。作業するための手は今やページをめくる手へと生まれ変わった。
私のクラスのページから四回めくると、彼のクラスのページになる。アルバムの中の彼は、やはり輝いていた。想い出の中の彼を脳内で反芻するよりも、その光は強かった。
そうだ、この時の私は。まだ彼の何も知らなかった。別に今の彼も、どうなっているのか一切知らないわけだけど。
写真に映る、約十四年前のあの時の眩しい光が涙腺を刺す。懐かしさに、胸が締め付けられる。
何度も大好きだと、彼のいないところで呟いた。消しゴムに彼の名前を書いて、無駄に消費した。夢を見られるように、修学旅行の時の写真も校内販売の時こっそり購入して枕の下に敷いた。
けれど、あの恋は。私の期待の塊でしかなかった。それも、裏切られる前提の。
涙がアルバムに落ちる。雫が、黒いインクをにじませた。慌てて、ティッシュで拭う。しかしインクは薄まって、広がるだけだった。その下には……こんな奴いたっけ、と言いかねないほど記憶にない男子生徒の写真があった。
『俺の恋人を名乗るなら、載ってる男全員消せるよな。十本セットのペン買ってきたし、今日は一緒に徹夜な』
そうだ、あの時彼が買ってきたペンは全て水性ペンで。一応塗れはしたしまあいっか、って彼は言ったんだ。
アルバムを閉じ、部屋を見渡す。片付けるためにひっくり返した思い出たちが、散乱したままだ。
『じゃーん、首輪! ちゃんとリードもお揃いのやつにしてみた、可愛いだろ』
『動くな動くな、字ぃブレるだろうが! あーもう余計なところ切った! はいはい泣かない! ほら飴ちゃんやるから食って気ぃ紛らわせろ、パイン味でいいか⁉︎』
『下着七セットありゃ十分だろ、一週間日替わり出来んだぞ。ほいポチった、明後日来るってよ』
『俺の部署じゃねえけど、うちの会社に空きあるから来週から来いよな。お前の職場にはもう退職の旨もう電話してるし、明日から来なくていいって言ってたぞ』
私は、彼の自由さに憧れた。私も、ああなりたかった。けれど、彼の傍は自由から一番程遠い場所だった。
玄関のチャイムが鳴る。ハッとして時計を見ると、私の誕生日まであと二分を切ったところだった。
恐る恐る、ドアスコープを覗く。そして、ぞっとした。彼の名前が未だ刻まれている背中に、冷や汗が伝う。
手に、役所の封筒やら拘束具やらがパンパンに詰め込まれた紙袋。それは、女性皆が憧れるジュエリーブランドのものだった。ご丁寧にリボンまで巻いているけれど、そのリボンですら私を縛るための道具にしか見えなかった。
「よぉ。リベンジプロポーズの時間だぞ、っと。ハッピーバースデーはその後に歌ってやるよ」
玄関扉の向こうの彼は、暗いままの目で笑った。
第二回水平線短編大賞、応募作品です。
「時間」というテーマで書かせていただきました。
素敵な機会をありがとうございました!
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基本的にはつぶやきで返信します。よろぴこちゃん!