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生徒手帳のシーウィー 1

一日の仕事を終え、いつも通りどこにも寄り道することなくまっすぐ家に帰っている。自分のために使える時間がたっぷりとあるというのに、いつも家に辿り着くと、何もする気が起きずにソファに倒れ込んで時間を無駄にしてしまう。この時間を使って洗濯物を片付けることもできたであろうし、部屋の片づけをすることもできただろうし、読書をすることも、溜まっているドラマの録画を消化することもできたであろうに、それをしなかった自分を情けなく思う。

そろそろ洗濯機を回さないとブラウスの替えが底をつきてしまうし、テーブルの上にはかれこれ一週間分の弁当のパッケージが積み重ねたままにしてしまっていた。なによりシンクには洗い物が溜まっていて異臭を放ち始めていて、いい加減、洗い物をしなくてはということは頭では分かっている。

部屋の汚さもさることながらわたしも風呂に三日も入っていない。真冬だから毎日入らなくてもいいかもしれないが、さすがに頭の皮脂が髪の毛に染み込んでばさばさしてきていた。

生きているだけでゴミは溜まっていくし、生きているだけでお風呂に入らなければならないし、生きているだけで歯磨きをし続けなければならない。なんて理不尽なんだ。汚泥のような憤りがわたしの身の内に溜まっていた。なんてダメな自分なんだろう。

せっかく20時には帰ってこられたというのに気が付いたらもう22時をまわっている。こうしているちに、あっという間に日付が変わってしまう。ごろごろと転がってソファから落下するとフローリングに溜まっていた埃がふわっと舞い上がった。最後に粘着クリーナーをかけたのはいつだったかな……思い出せないな。あっ、スーツに埃がついたらもっとめんどくさい。立ち上がらなくちゃ。もう手遅れかもだけど。

肩や袖に付着したであろう埃を手でささっと払いながらスーツとブラウスを脱いで、ソファの背もたれに放り投げた。そうすると肉がでっぷりとついて垂れ下がった腹にパンスト姿というだらしない恰好の女が現れる。玄関に置きっぱなしにしていた駅前の弁当屋で買ってきた牛キャベ丼を電子レンジに放り込んでボタンを押して温める。

クローゼットの奥に仕舞い込んであるプラスチック製の底が浅くて口の広いフードボウルを取り出す。それは青色とピンク色の二皿がワンセットになっているものだ。プラスチック特有の安っぽい触感を爪で弾いて確認していると心臓がとくんと鳴り血液が血管を蠢くのを感じた。

流しの蛇口をひねり青色の餌皿に水を汲んで床に置いたとき、牛キャベ丼が温まったことを電子音が教えてくれた。湯気の立つ牛キャベ丼を指先でつまんでピンクの餌皿に移し替え、青色の餌皿の横に並べた。具材が粗雑に盛られた皿と透明な水を湛えた皿を無機質な白色の蛍光灯が照らし出している。なんともみすぼらしい光景だった。

みすぼらしさの陰影をずいぶんと長い時間かけて見惚れてしまっていたようで気が付くと足の裏に軽い痺れを感じた。

わたしは意を決しブラジャーのホックに手をかける。後ろに回した手の甲にべったりと背中にかいた汗がつき、緊張と期待が高まっていることを自覚する。尻で手の甲を拭ってからパンストを脱ぐ。たるんだ腹にくっきりと刻まれたパンストのゴムの横線にみすぼらしさを感じながらパンツに手をかけた。

いまのわたしは何も身にまとっていない。洋服を身にまとっていない姿こそが太古の姿であったはずなのに、何故だかおぼつかない感じがする。下を見下ろすと現実的な身体がそこにはあった。足指の形はずんぐりしていて、おまけに足指から毛が生えている。毛が濃い体質のために太ももには毛根が黒くぽつぽつと点在していて虫に刺された箇所が赤黒く跡になっていた。それにぽっこり出たお腹はくっきりとパンストの横線がついていて赤くかぶれているし、重力に逆らえずに乳房はだらんと垂れていてアフリカの未開の部族の乳母を思わせた。日々の不摂生が祟ったのか肌の質感もかさかさしていて理想の女性からは程遠い。

服も下着も脱いだわたしの身体は「女性」の身体とは言えない。それはつまり、テレビや映画や雑誌などで描かれる美的な「女性」としての身体とは程遠いということだ。

なんというか、動物っぽい。まるで醜い野犬のようだ。動物。わたしは、動物だ。醜くても、それでも、動物だ。いま、この瞬間、わたしは女性ではなく、ましてや人間などでもない。

足を肩幅くらいに開き腰を降ろすと股間から三日分の自分の匂いが立ち上ってくる。その匂いは「生き物の匂い」で自分が人間である前に生き物であり動物と変わらないことを思い出させる。

爪先立ちになって踝に尻を載せて安定する形を取る。その姿勢は力士の蹲踞の形に似ているが、手は膝に持ってこないで胸の前に持って手をだらりと垂らす。そして、

「くぅん、くんくん」

と鳴いてみる。チンチン、のポーズだ。ご飯を食べる前の礼儀作法と言うやつだ。そして、四つん這いになって

「ぅあん! ぅあん!」

と吠える。

前足で地面を蹴る。餌が目の前にあって待ちきれないとでもいうように……でも、すぐには食べない。すぐにがっついてはいけない。それは躾のなっていない犬のすることだからだ。でも、餌を前にして喜びに溢れている。わたしは犬なので喜んだときは身体全体で表現する。その場でくるんと一回転をして喜びを表現する。

「ぅああああ、ゔぁん」

へぁっへぁっへぁっへぁっと息が荒くなる。そして前足を床について餌皿に顔を近づけて鼻をひくひくさせて餌の匂いを感じ取る。とうとう我慢できずに餌皿に顔を近づけてがぶりとフライドエッグに噛みつく。

「きゅぅきゃんきゃんきゃん!」

電子レンジで温めすぎて熱くなっていて、唇についた黄身が焼けるように熱かった。フライドエッグを空中で口から離してしまい、床に落ちる。そして冷やすようにもう一つの青皿に顔をひたした。

「くぅ~ん……」

唇ももちろん熱かったが、鼻の頭についた牛キャベ丼の汁も熱くてひりひりする。ふだん熱めにして食べるのが好きなのだが、手も箸も使わずに食べるのだから熱くしていたら火傷をしてしまうことをすっかり忘れていた。

「ぎゅるるるるるるるぅわんっ」

餌皿に向かって吠える。せっかくの晩御飯の興が削がれるじゃないか。今度はゆっくりと恐る恐る餌皿に口をつける。キャベツの切れ端を唇で啄むようにして持ち上げ口に放り込む。どう頑張っても鼻や顎に食べ物がついてしまう。それでも避けようとして頭をひねったりして少しずつ食べていく。

水を飲むのも犬のようにして飲むのは大変だ。最初はただ舌先を湿らす程度しかできなかったが、舌を丸めてスプーンのような形にして飲み込む方法を覚えてから少しずつ水分を摂取することができた。

口周りを汚しながら、ずるずる、くちゃくちゃと音を立てながら食べる様子は犬そのものだ。いつもなら10分もあれば食べ終わってしまう弁当もなかなか食べ終わることはできなかった。床に落ちたフライドエッグも半熟の黄身もべろべろと床を舐めながら全部食べつくす。

ほんの1時間前に身体中に重くのしかかっていた倦怠はいつの間にか蒸発していた。鼻についてしまったにんにく風味のソースを手の甲で拭ってはぺろりと舐めて顔を綺麗にする。心地よい疲労感が私を睡眠の沼に誘う。わたしはベッドまで四足で走っていって毛布を噛んで引き摺り降ろしそのままリビングまで咥えていく。そして洗濯物の山の上に毛布を敷き身体に巻き付けて伏せた。今日はこのまま寝てしまいたかった。

「あううううううううぅぅぅぅぅぅん」

 遠吠えをする。

「あうううううううううううううぅぅぅぅぅぅぅぅん」

身体を丸めてもう一度遠吠えをする。喉を震わせてどこまでも届くように。



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D-8
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