【SM小説】1700km/hになんてついていけやしない【M女】
わたしは本当にこんなことがしたかったんだろうか。こんなことをするために自分は今まで頑張ってきたんだろうか。幼き頃から「教師」という職業に憧れを抱き、大学で教育を学び、試験を受けて免状を貰い、なんとか教師っぽいことができる職にありつき、こうして今、教壇に立っている。
でも、教壇に立っていながら、私は本当の教師ではない。あくまで教師っぽい何かだ。『臨時的任用職員』もしくは『会計年度職員』。呼び方はまあ何だっていいが、とにかく“非正規”職なんだそうだ。
非正規と言ったって、色々な仕事を押し付けられて、“正規”並に働いている。お給料は何分の一で、待遇は天と地の差もあるのに。
毎日のように「人手が足りない」という声が方々から上がってる。今年に入ってから休職している教師はもう二人目だ。組織全体が余裕を無くして不満だけが蓄積され、解決の見込みや目途すら立っていない。
だったらさっさと私をちゃんと“正規”で雇えばいいのに。でも、そういうわけにはいかないそうだ。“学校”なんてどこもお金は無いし、お金をかける気なんて誰もさらさら無いのだ。子どもたちの将来よりも、老人の病院代とオムツ代の方がはるかに大事なのだろう。
大して儲かりもしないというのに、忙しさにかまけていたら、あっという間に30代も目前。大学の友達は次々に結婚して、私はついこの間、彼氏と別れたばかり。
「ごめん。あゆみとは結婚できない、悪いけど……ごめん」
私と目すら合わせず、眉間に皴を寄せて下を向きながら、彼氏にそう言われた。
給料が少ないのに都合よく仕事を押し付けられる生活に嫌気が差したのと、一年の契約で先々の見通しの立たない生活に不安を覚えたのと、友達の結婚式が三週間続けて入って、少し頭がおかしくなって、つい結論を迫ってしまったのだ。
「あーあ、やっぱりね」、としか思えなかった。最近全然あんまり楽しくなさそうだったし。「なんで俺、こいつと付き合ってるんだろ?」っていう微妙な表情してたし。「どうやったら穏便に別れられるかな」っていう、絶望的に距離のあいた他人行儀な顔。関係を続けようとする努力も、私と向き合おうという気概も無くした、私ではどうにもすることができないただの他人になっていたのだ、いつの間にか。
こうして教卓に座って、小テストに向かっている生徒たちを眺めていると、彼ら彼女らの背後に見える無限に広がる未来に恐れおののく。彼らは何にだってなれる。何だってやれる。思い通りの未来が開けている。彼氏にフラれたばかりのアラサー非正規女はただただ可能性が刈り取られていくばかりだというのに。
やってらんねー。
「え?」
目の前に座っている生徒の伊藤沙織(いとうさおり)が不思議そうに私の顔を見上げた。
心の中で思っていたことがつい言葉に出てしまっていた。もう遅い。
生徒がざわめき始め、次々にテスト用紙から顔を上げてこちらを見る。
「千歳先生がやさぐれてるー」
「あゆちゃんどうしたの?辛いことでもあった?」
「こわあ……アラサーがキレてる」
「コーネンキってやつじゃね?」
「しっ!聞こえるって」
と口々に言い募る。アラサーとは言え、他の先生たちと比較して彼ら彼女らと年齢が近い私は、生徒たちから親近感を持たれている。
親近感と言えば聞こえはいいが要するにナメられているということだ。一度、こいつらの興味を引いてしまったら最後。絶対に言うことなんて聞きやしない。
「ほらほら静かにしなさいって」
「もう全部解き終わったもん」
教卓の目の前の席に座っている伊藤沙織が抗議する。
「あーじゃあ静かにしてなさい」
アーモンドのようなくりっとした瞳にはどこか意志の強さを感じさせる。要領が良いのか、勉強はそこそこ上手くこなしている器用なタイプの女子だ。
伊藤さんがじーっと私のことを見つめている。その目には見るものすべてが楽しいといった無邪気な好奇心が宿っている。しばらく書き物をする振りをして無視してやり過ごそうとしたが、それでも彼女にじっと見つめ続けられ、さすがに居心地が悪くなってきていた。
ペンを机にぽいと放り投げてからため息をつき、
「結婚てさ、しなきゃいけないのかね?」
そう言った。
教室に呆れたような笑いが広がっていった。それでも私は続ける。
「ほんっとさあ、周りの結婚しないの?って圧、あれマジできついわ、もうできるもんならこっちだってしたいものよ」
「せんせー、彼氏は―?」
クラスの一軍男子で陽キャお調子者男子の春野空人(はるの・そらと)がそう茶化す。
「先生は先週彼氏と別れました。しかもフラれたんです。この私が。アラサー馬鹿にすんのも大概にしなさいよね」
「あゆちゃん先生可哀想~。俺、彼氏立候補しよっかな」
「馬鹿言ってんじゃないの。だいたいさ、春野くんお金も無いでしょ。もうこっちはただでさえ薄給だってのに、こんなに結婚式が続いたら破産するっての。まったく、ドレスは新調しなきゃいけないわ、美容院代は嵩むわ、もう限界よ。それなのに出会いは無いわ、既婚者にマウント取られっぱなしだわで、あーあ、嫌んなっちゃう。ほんとにお先真っ暗。それによ、こっちだって結婚したくなくてしてないわけじゃないんだからね。できないのよ、できないの、結婚が一人でできるってんならとっくにしてるわさ」
私の剣幕に押されて春野くんは押し黙ってしまう。大人をからかうな。は~~~と大きなため息をつくと、立っていられずに椅子にへなへなと座り込み、机に突っ伏した。
伊藤さんがすっくと立ちあがったのを目の端に捉える。とことこと私の横にやってきて、私の頭を撫で始める。
若さのせいか、手は熱を持って、柔らかく温かな感触が毛髪を通して頭皮にまで伝わってくる。
「よしよし、あゆちゃん。つらかったね」
「うん……」
伊藤さんの不思議な包容力にほだされて、素直に頷いてしまった。髪の毛を梳かすようにして撫でるその感触は不思議と安心感を覚え、きっと、大丈夫だ、という気持ちにさせる。まるで、膝の上でご主人さまの寵愛を受けている時みたい……
正直言って心地は良かったが、さすがに生徒にこんな舐めた真似をさせ続けるわけにはいかない。示しがつかなくなってしまう。もう遅いかもだけど。私は頭を撫でる手を腕で払いのける。
「ちょっと、やめなさい。というか、そもそも授業中よ。許可なく立ち歩いちゃダメでしょ」
剥がれ落ちそうになった教師という仮面を急いで被り直し、伊藤さんを叱った。
「は~い。だってあんまりにも千歳先生が落ち込んでるのが可愛かったからつい、ね」
伊藤さんは悪びれもせずに舌をぺろっと出してから、自分の席に戻る。
「つい、じゃないわよ。まったく、ほらほら」
きっと、場所が場所なら彼女に全てを委ねてしまっていたかもしれない。何十人もの生徒を前にした教卓でなければ……たとえば人気のない校舎裏であったり、はたまたフェティッシュバーで出会った客同士であったら……きっと、彼女に抱かれてもいい、そう思っていたかもしれない。
本当に油断ならない。ご主人さま気質というのは、年齢は関係ないのかもしれない。彼女が望みさえすればきっと、必ずや今にでも素敵なご主人さまになれるはず……そう考えているとお腹の奥の方が疼き始める……
もちろん、いい歳したアラサーですから、そんな素振りは見せないようにして、大人としてわきまえて授業を全うしましたとさ。
次の時限から昼休憩の後までは授業が無かった。職員室に戻って冷めきった緑茶を啜って喉を潤す。そうして、机に高く積まれた処理しなければならない紙束を茫然と眺める。事務仕事は山積みだが、今はどうしても紙束の山に向き合う気になれそうもない。
それに、息の詰まりそうな職員室で時間が過ぎるのを待つのも辛すぎる。私は、たった今何か職員室を出なければ済ませられない用事を思い出したというような顔をして、職員室を抜け出した。
だいたい、この給料でこんなたくさんの仕事なんてやってられない。そもそも、学校行事やら定期試験の準備やら何とか研修やらで、上司どもは気軽に人の休日を奪っていく。彼氏とのデートをそれで何度キャンセルしたかも分からない。そうして、プライベートを犠牲にしたところで何の報いもないのだ。
あ~あ。私が土日休みで、給料がそこそこあったら、彼との関係はもっと良好なものになっていたのだろうか。そしたら別れることはなかったのだろうか。今頃、結婚できていたのだろうか。そうやって、たらればの後悔ばかりが思い浮かぶ。彼のことは私なりに真剣に好きだったし、一生大事にしたいし共に生きていきたかった。でも、実際はそうはならなかったし、結局は、フラれてしまった。
ほんっと、ままならないなあ。
しんと静まり返った廊下を歩き、階段を上って、屋上に向かう。今の時代、珍しくこの学校の屋上は施錠されておらず、自由に出入りができる。
ちくしょう。
ふざけやがって。
どいつもこいつも馬鹿にしやがって。
私を取り巻く全てのものに苛立ち、自らの人生の不甲斐なさにまで苛立つ。
屋上には何も置いておらず、がらんとしてだだっ広く、気持ちが良い。もちろん授業中であるこの時間には生徒の姿はなかった。この広大な敷地を独り占めだ。屋上の中ほどまでとぼとぼと歩いていって、コンクリートの床に大の字になって寝転がった。
真っ青な空が視界いっぱいに広がり、春のうららかな日差しが私を照りつける。内ポケットに忍ばせておいた電子タバコを取り出して、カートリッジを差して電源をつけた。
校庭から聞こえる体育の授業の掛け声の音。
近くの幹線道路を走る車の音。
遠くの方で鳴っている工場が操業している音。
そして、時速1700kmで自転する地球の音が聞こえてくる。
私に残された時間はもう少ない。それなのに、音速よりも速い速度で回り続けるこの地球で、その速度に耐えきれずに振り落とされそうになっている。
十分にタバコが温まったのを知らせる振動が手を伝ってきた。私はぎゅっとタバコを握りしめて、ちゅーと吸い始める。
あー、向いてない。向いてないわ。教師なんて仕事。16歳の小娘に軽率にその気にさせられてもどかしい気持ちにさせられてるし、そもそもニンゲンやるのが向いてなかった。
だから、私はニンゲンを辞める。
スマホを取り出してから、膝丈のフレアスカートを腰までたくし上げる。肌が透けて見えるほどの薄いストッキングに包まれた脚が日光の光を反射し、ここだけ切り取ってみるとどうしたって艶めかしい。
黒いストッキングの奥に光り輝く花柄の白色の下着が愛らしく、そして、香しいほどに色気がある。自分で見て惚れ惚れするくらいだった。身体を起して角度を調整して、何枚か自撮りし、もう一回屋上にごろんと寝転んでから、いくつかのアプリを使ってさらに綺麗に見えるように加工する。それをわたしの愛しいご主人さまに送信する。
私の日常、私を縛り付ける常識、私を取り巻く社会、毎日のこなさなければならない生活。そういったものから切り離された時間を共有しているのがご主人さまだった。
ご主人さまと紡ぐ時間は、まさしく非日常の時間だった。日常も、常識も、社会生活も、それを成り立たせているなけなしの理性ごとかなぐり捨てて、ご主人さまと気持ち良いことだけをする。その中で、噎び泣き、そして溶け合ってきた。
ご主人さまにだけは、本当の私を見せられる、唯一の存在。
弱くて、憎らしくて、そして可愛らしい自分。嘘偽りのない自分。綺麗でいたい面も、その裏に隠されているどろどろとして醜い面も。
ニンゲンを辞め、一糸まとわぬ姿を晒し、全てをさらけ出せるのはご主人さましかいない。
ご主人さまはどんな私だって受け入れてくれる。それが許さざれることであっても。
そして、そんな私をとことん可愛がり、厳しく罰し、そして最後には赦してくれる。
ご主人さまと共にする暗闇の時間だけは、時速1700kmで自転するこの地球からも切り離されている。上も下も右も左も分からなくなって、ただただ泣かされ、鳴かされるだけの獣になり、他の人には見せられない私の姿を、ご主人さまにだけ置いていく。ニンゲンの私を知ってる人なんてあの暗闇には誰もいないのだから。
一番愛しくて可愛いのは、そんな私の姿を見て、理性をぶっ飛ばして一心に求めてきてくれるご主人さまだってことだ。そんなご主人さまの乱れた姿を見ちゃったら、気持ち良くなりすぎて、一瞬で私の髪の毛一本までもがひれ伏しちゃうのだ。
ねえ、良いでしょ。責任なんて地球に置いてきてさ、くそみてえなつまんない現実なんて忘れたふりして、都合よく気持ちよくなっちゃおうよ、私と。
みんなの前では上手に取り繕ってあげるから。頑張ってわきまえてニンゲンやるから。ね、それくらいいいでしょ。
スマホの電源ボタンを押すと緑色のメッセージアプリの通知アイコンがふっと浮かび上がった。ご主人さまから返ってきた返事を楽しみにして、画面をタップして開くまでの数秒間がもっとも興奮するのだ。
その数秒間、地球が自転するあの音が聞こえなくなった。
私はまた自転から切り離されたたった二人だけの場所に深く潜り込んでいく。
<了>
🌍これまで書いた作品🌎
https://note.com/d_8/n/na42a539064b1