枝角の記
(以下は昔クリエイターズ・ネットワークの習作企画で書いたもの。とりあえず貼り付けテスト用に冒頭のみ。うまくいったら後日また貼る)
追われている。
踏みおろしかけた蹄を持ち上げたまま、“枝角(えだづの)”は凍りついたように動きをとめた。
限りない緊張が、機能としての怯えが大角鹿の身体に一瞬で満ちる。
踏みわけた雪殻がきしむ。そのかすかな響きすら、追跡者に聞きつけられるかもしれなかった。
漏斗の形をした耳が、別の生き物であるかのように震えて動く。二度、三度。
鼻腔からもれる吐息が、枝のあいだから差し込む月光に白く煙る。
ハルニレの枝のあいだを氷河からの風が吹きぬける。
十呼吸。
耳に届いてくるのは、高くゆく風が山の稜線をけずる音である。
待つ。
息五つ。
届いた。追跡者だ。
捲いてきた山塊のふところ近く、風音にまぎれるようにして遠吠えがあった。そして、やや大きく、応える咆哮が長く。
近い。
駆け出していた。
枝角は雪殻を蹴上げて飛び出した。その角の大きさ、体の重さをまるで感じさせず、木立の中を姫鱒のように駆け抜けていく。
血と魂に織り込まれた反応、数えられないほどの代を重ね、練りあげられた自動的な動きである。
一つ、二つさらに咆哮が応えた。谷筋から小刻みに唸る声と雪殻を踏み砕く音が届く。
枝角は斜面の立ち木を縫うように、跳ね、駆けた。
数瞬後、追いすがって三頭の獣が斜面を駆けあがってきた。
いずれも歯をむき出し、鼻に皺を寄せ、荒い息を立てている。脚の半ば過ぎまで埋まる雪に阻まれ、獣たちは胸で雪をかき分けるようにするしかない。
狼だった。
黒銀色のたてがみを蹴立てた雪がまだらに彩っている。長く走り続けているのだ。
だらりと垂らした舌からは湯気があがっているが、毛皮には霜がついていない。歩みを止める間もなく、体が冷える間もなかった証だった。
先頭をゆく一頭が駆け足から早足に歩みを変える。枝角が頭を巡らせたのを確かめ、数度噛みつくように吠えた。
もう一群れが立ち木の間を抜け、応える。数は二頭。
追いかけてきた三頭の群れの斜め前、やはり斜面の下から挟みこむように動く。枝角を尾根筋に追い上げる機動だった。
枝間に差しこむ蒼い月影のもと、五頭の狼は一つの生き物のように包囲を狭めてゆく。時折、木陰の闇から眼が黄色く光る。その眼には獲物を追う熱狂と、追い詰める冷静さが奇妙に同居しているが、一つだけ、尋常な血族と異なる色彩があった。
それは、苛立ちである。焦燥といってもよかった。
狼たちは焦っていた。