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1年ぶりのモンゴルで「私は生かされている」と感じた話

 昨年の夏、初めてモンゴルへ行った。そのときの風景や草原の匂いが忘れられず、1年ぶり2度目のモンゴル訪問を果たした。

 私がモンゴルへ行った理由を改めて考えてみると、今の自分の日常生活の外側の世界をみて、いまとは全く違う選択肢もありえると知り、視野を広げて自分の意思で自分の生活を選びたいと思ったからだった。しかし帰国後、なんだか変だなあ、不思議だなあと考えていた。

 モンゴルで今回の目的地である湖を目の前にして感じたのは「私は生かされている」ということだった。
 身の回りのあらゆる環境、自然、人との関係の中で私は生きることができている。太陽の光が降り注いで、草原の草が生える。それを馬やその他の家畜が食べ、その家畜のミルクや肉を私がいただく。寝る場所も、その土地の木材や羊の毛から作られたゲルだし、移動手段も、そこに暮らす人が調教した馬だった。
 すべてが、その土地からいただいたもので成り立っている。それは私が選び取ったのではなく、「ただそうである」だけなのだ。

 「意思を持って選択したい」と思って出かけたのに、その答えとして受け取ったのは「意思などない」ということだった。すべてが周りの人や環境との関係性の中で動いていて、その中で私も生かされている。私の意思なんてどうでもよくなってくる。エゴがなくなっていくってこういう感覚なんだろうか。

 帰国して1か月。何かと慌ただしい日々のなかで受け取っていたのは、自ら「これをやりたい!」と打ち出すのではなくて、周囲からの頼まれごとを引き受けたり、コミュニティでの役割を果たしたりする、という考え方もあるということ。友人との話の中でも、たまたま仕事で読んだ文章の中にも、同じような話が出てきた。「あー、そうだよなぁ」と思った。

 「私はこれがやりたい!」と意気込むことで大きなことを成し遂げる人も世の中にはいるけど、周りを見聞きして流れに乗っていくやり方もある。それだって、うまく生きていくコツなのかもしれない。

***

 私は自分の意思を打ち出すのが苦手で、「言いたいことが言えない」「そもそも自分が何したいかもわからない」という人間だった。
 かつての私は、上司から頼まれたことをただ言われた通りにやっていた。でも、あるときそれで失敗して、表面的には謝罪しつつも、内心「言われた通りにやっただけなのに」という言い訳をしている自分に気づいた。そんな自分に嫌気がさしたから、自分の意思をちゃんと自覚していきたいと思ったのだった。

 私はこれまで受動的に生きてきた反動として「意思を打ち出していきたい」と思っただけなのかもしれない。しかしモンゴル旅を経た今、自分の意思を通すのではなくて、周囲との関係の中でお役に立てることが幸せなのかもなぁ、と次第に思えるようになった。

 過去と現在の自分を比べると、一見「周りに合わせる」という点が似ているように見える。けれど、決定的に何かが違う。どちらもある意味受動的だけれど、今の方がよっぽど楽しいし、自分の人生の舵を握れている。

 その違いは何なのか?

 何日かの間モヤモヤ〜っと考えていて、ふと気づいた。今の私には、「感謝」と「謙虚さ」が育ってきているんだ、きっと。
 例えば、人から頼まれたことを「面倒くさいなあ」「しょうがないなあ」と思ってやるのではなく、「ありがとうございます」「やらせていただきます」という気持ちで取り組むとか。感謝と謙虚さなんて、自分でいうのも恥ずかしいし、まだまだだとは思う。面倒だと思うこともたくさんある。でもかつての自分と比べれば、ほんの少しでもこれらが醸成されているし、方向性は間違っていない気がする。

 そんなことを得た今回の旅だった。もともとの意図とはズレているけれど、旅とはそういうものなんだと思う。

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