なんでだろう
他人を蹴落としたり意地悪をするような人間が、どうして明るく充実した生活を送っているのだろうか。
私の今の現状が良くないから嫉妬もあるかもしれない。
でも私は、一部のある人に、長い間疑問をこさえている。
誰かの感情を痛めつけて、なんでかな。
まるで情緒を理解していますよと言いたげな文章を載せて。私はあなたが本を、文章の密度を理解できないこと知ってるよ。
私が昔から好きだったものを、あたかも自分が見つけたと言わんばかりに周りに見せびらかして、楽しいのかな。
それって、自分の感覚で得たものでないから、自分の価値にはならないと思う。
世の中にはさまざまなコンテンツが存在していて、人間全員がそれを選べる立場にある。なんでも選べるし、全ては選べない。
選べないものがあるのは、いくつかの理由があるけど、一番は「自分の感覚がどう反応するか」だと思う。
良い悪いではなく、私はこれが好きでこれには興味が湧かない、とかいう、それ。
こうやってほとんどの人が、自分の感覚に素直にさまざまなコンテンツを取捨選択してると思う。
だって、全ては見ることが不可能だから。
世界中にあるすべての書籍を読み切るには人生は短すぎるから。
でも、最近思うのは、
これを好きって言えばセンスがよく見られる
これを知っていれば格好いいかもしれない
みたいな、邪な気持ちで、たいして興味のないそれをあたかも自分の既存の知見のように話す人が居るなということ。
私はそういう人が大嫌いで、偽物だと思ってる。
知らないなら知らないでいいし、知らないけど興味があって、とか、そういう話が私はしたかった。
私だって興味のないことは知らないし分からない。野菜を美味しく育てる方法や、かっこいい車の話とかめっきりだし。
いい思い出は、いい思い出のままに記憶を弔いたかったな。
なんで悪いことが後からどんどん出てきちゃうかな。
誰かの感覚を盗むみたいなことって何もセンスないし、かっこよくもなくて、世界一ダサいと思う。
私だって、きっと夢野久作の文体を真似て文章を書いてみれば、パッと見はそれっぽくなるかもしれない。
でもそれっぽくなるだけで、中身は何も伴わないよね。なぜなら私には文豪たちのような才は持ち合わせていないことをハッキリと理解しているから。
誰かの感覚って、苦しんでもがいた結果の産物だから中身までは絶対に誰にも真似できないし、本当のところには本人以外は侵入もできないと思う。
自分の感覚で、自分の人生を生きなよ、