させていただかない。するのだ

こと言葉の使い方に限って言えば、何にでも「させていただきます」をつける安直さが好きではない、というか大嫌いだ。
言葉として美しく響かないと感じる。
のとその言葉の選択が考えることを放棄しているように見える。”とりあえず”相手を立てる言い方にしとけば角は立たないだろうという安パイな選択が透けて見えるからだ、というのが自分のいまのところの意見。
もう少し気持ち悪さに踏み込んで読み解くと会話内の責任の力の支点が自分でなく、無責任に相手に委ねてしまっているように見えるのも気に入らない理由。

敬うことは下から上へ思いやること

日常会話、とくに仕事での文書や台詞の中で散見される「させていただく」が本当に嫌いで、聞いても目にしても眉根が歪み虫唾が走るほどの拒否感があった。
瞑想をするようになって法話を聞きに行ったりするようになり、法話や瞑想指導などの文脈の中で出てくる「いただく」はまさに「頂く」が源なんだなと理解も感じることができ、向ける対象への尊敬、畏敬の念が透けて通っているから言行一致が故に聞いても違和感がないのだ。
例えば職場でも、上司からの話をしてもらうときに、多少大袈裟かなとは思うものの表現するなら ”○○さんからお話して頂く” だと思えるときは、確かにその人に尊敬の念を抱いているときなのだ。
その時の気持ちを掘り進んでみると話をしてもらう彼または彼女がわざわざ聞く相手の自分達に対して、限りあってかつコストの高い時間を割き、何かを伝えようと想いを抱き、それらの思いや考えを伝わるようにと思慮した結実がこのお話し、コメントにあるんだなと考えると自分は自然とお話をいただいてありがとうございました。と言葉に出ることがわかった。

責任を他者に委ねないこと

日本語というか日本語の話される文化では、直接言わない指さないことでトゲトゲさせないのを美徳としていると思う。今現在でもその心根は美徳になると思う。
しかし、ビジネスの場や、旧来に比べて環境やバックグラウンドの世代差が大きくなった社会(=小さなそれとしての会社)ではいわゆるダイバーシティそのもので、『言わなくてもわかる』ハイコンテクストな文化が通じる幅は世代も環境も狭くなっているのだと思っている。

失礼でないことは近視眼的に敬語使用不使用とか正しい間違っているよりその延長というか根本にある相手への畏敬をどのように表現するかということ、思い遣れるかということ。
例えばビジネスの場では敬語が云々より、そもそもの目的が話す内容、ロジック情報量など正しく話し手の意図が聞き手に伝わって話す目的を達することだということに気づいていれば、無駄で誤っていて美しくない敬語風表現を使うよりも、私が○○します。という今ここ、の事実を述べれば万事すっきり丸くおさまると思っている。

自分の行動は自分で責任を取ることを言葉でも適切に表現していく覚悟をもち雑な言葉の選択はしない、という宣言。

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