変えれないもの、変える必要のないものに関わらないという選択
アンガーマネジメントでのメソッドで、怒りを認識して分類する。その中で過去や天候なんかの変えられないもの、そしてよくよく観てみたら怒るに値しないような重要でないもの、に対してはもう考えないという考え方がある。これにはとてもロジカルで効果的なので同意できる良いメソッドだと思い実践するようにしている。
これを仏教的に捉えたときには「関わらない」という選択は貪瞋痴の痴(見ないこと)にあたるのだろうか?
見えているリスクを避ける表面的な処理にも思えるし、今ここでの選択は関わらない、なので適切なようにも思える。
自己の安寧が選択の理由のひとつなのだが、独善的な選択とまずは自分に抜苦与楽する選択とどちらが仏教的に得心するロジックなのだろうか?
都合のいいときに在家だから、それはお題目だからという言い訳は使わない選択ができる生き方でいたいなあ。