今日やれるだけのことをやったらあとは明日の自分に任せる
概念である自分という何かしらの塊的なモノがあるとして、さらにその塊は経験の集合体であるから仏教的に言えば無常である。
自分とは固定化した何かしらの物体ではないし、また連続的に固定化したそれでもない。
故にさっきの自分と今の自分は極微小だが異なるし、昨日の自分と今日の自分も違う。
これらを時間間隔を長くすればいわゆる成長とか老化とか言うのかもしれぬ。
今日述べたいのは別人格とも言える未来の自分に今日の自分そのものや行動や思想を委ねることができるということ。
それをするとで「今ここ」に囚われすぎて自分の連続性が寸断し切羽詰まりそうになりそうな時の安心感と、未来の自分への橋渡しが今ここでやることだと今の自分にも未来の自分にも肯定感が持てるようになるということ。
物事が完全に自分の納得いくように終わらなかった場合、それが自分の能力に起因するのがわかっていても、「ちゃんとやれなかった」ことへの申し訳なさのようなものを残したままになってしまう。
その澱は積もりゆくと自信とかプライドを削っていく。
●●{役割名}だからちゃんとしなければならない は長い間の呪縛だった。
役割名は男だから、お兄ちゃんだから、●年生だから、社会人だから、●年目だから、先輩だから、上司だから、部下だから などなど
社会的な分類の中で定義、一般化された役割を自分が果たせていない時の落伍者になってしまうことへの恐怖にとらわれていた。
今もそれがなくなった訳ではないし、社会の中で生活を営む上で発生する一定以上の役割、責任を果たす義務は果たすつもりでいる。
ただそれがゼロかイチかの二元論ではなく、どれぐらい、今はそれができるのか、する必要があるのかを焦らずに観ることが少しはできるようになった。
そして今日の私の自己ベストを尽くせば、続きの役割やタスクは明日の私に任せてしまおうと思うようになった。
必要以上に抱えることなく、投げやりにもならず、できることやれることやりたいことを程よいバランスで少しの加圧とともに信をもって臨んでいきたい。