軸足自分、重心相手 バランス

なすがままでいると事象の結果からいいことを見つけることが苦手なので、いいこと楽しいこと嬉しいことを見つけようという心持ちでいる。

放ったらかしにしているとすぐ人を判断してしまう、いいとか悪いとか好きとか嫌いとか。思うに判断するってとんでもなく主観で傲慢、我が自分がが最初にあってそれだけ、相手はいないことのほうが多い。

少し前までぶすっとした顔をしているよりは、笑顔とまではいかずとも口角を上げておくようにすれば●●(社会的なメリット)があるよ、できるよ。の言説には反発心があった。何で自分だけしんどい時も笑ってなきゃいけないのか、笑ったとして自分に何かメリットがあるのか、そんな顔できる余裕があればとっくにやってるよ、ぶすっとしていなければいいわけで笑顔まで作る必要はないというような理由からだ。

いまはどうかと言えば反発する暇があったら一回でもやってみよう、に変わった。実際できていることもあまりないのだが。

これまでの考えの中には「自分が」ばかりで、「相手が」への気や思いは至ることがなかった。
主軸は自分で理由や責任は自分以外、思う様にならないまっしぐら。こんなだとしんどくないわけがないししんどくなくなるわけもない。

きっかけや原因はわからないが、物事を見たり考えたりする視点がロングショット化していってるのか、映画を見たりするときのように感じることが多くなった。
離人的と言えるのかどうかはわからないが、自分を他人とは思わないが、見ている感じている自分は物体としての自分より外側にある/いる、なので起こることも身体や心の反応も、熱くなってる、うるさいと感じている。相手がどう思っているのかが気になって不安、と見て取れる。

で冒頭に戻ると、放ったらかしにしておくと隠キャな性根があるのか批判的な見方受け取り方ばかりしてしまうので、『ということは』で受け止めたり感じたことを表面ではそう受け取ったよね、はいはい、こういう見方とか相手の都合もあるんじゃないかな、などがまずは想像できるようになった。
その人のそこに至らせたバックグラウンドを想像できればできるほど、貪瞋痴ではなく念定慧に対応できるんじゃないかなと思えるようになってきたので、まずはやってみるという話し。それで相手が喜んでくれれば重畳だ。

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