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死体になった自我も愛してくださいね

先日、帽子を含めて全長130センチくらいの雪だるまを作った。フンコロガシみたいな無様な姿で家の前の雪をかき集めた。この世の娯楽がそれしか無くなったみたいに。
写真の横に若干映ってしまっているのは友達ヅラをして肩を組む生産者の私。
私の身長は150センチ未満なのでサイズ感的にも良い感じの仲間になれた気がした。
黒いハット帽と揺るぎない表情がダンディーだね。

後ろ姿だけでもすごい風格。こいつが居るだけで通りすがりの人に(この家にはヤバい奴がいる…!)って思わせて牽制できそうだった。誰も寄せ付けないように守ってね。しかし一番日が当たるところに置いてしまった。まあ、寒いよりはあったかい方が良いよなぁ。


翌朝、雪だるまは死んでいた。

バラバラ死体だ。なんてセンセーショナルな一枚。歴史的な価値がある。顔のパーツだった石ころたちが一箇所に集まってしまっているのが見るに耐えない。とってつけたように悲しいなぁという感情を感じた。犯人は紛れもなく太陽だったが、しかし我々は太陽を裁けない。責任や罪悪感を負わせることができない。なんで太陽には法律が適用されないんだ?法律って一体なんなんだろうな。私には社会の仕組みというものがさっぱり分からないので猿に戻りたい。

命は儚い。自然の脅威の前には無力。こうやって死体をみんなに見られて晒し者にされるなんて嫌だろうな。でも私は誰にも知られないまま死ぬ方が嫌だ。
昔の話をするけれど、大雨警報が出ていても学校がある事実があまりにも耐え難くて、大雨警報の日の登校中に増水した川に身を投げて死のうと思っていた。そうすればきっと私の死が大々的に報道されて、大雨警報でも登校させることが問題視されるようになって、やがて日本からそんな学校は消えるだろうから。想像するだけで気持ちが良くて仕方なかったのに、結局怖くてしなかった。生き物なんでね。死にたくないんでね。

世界を変えてから死ななきゃ、世界中の人の賞賛やら非難やらを浴びて舞台の幕を閉じるような壮大で凄惨な死を迎えなくちゃ意味がないでしょう。生まれてきた意味が。元々無い意味を作り出そうよ。意味がないから全部消えたって構わないけどさ、どうせならみんなで仲良くしよう?愛されたくて生まれてきちゃったんだからさ。お互いの記憶にお互いの存在を残し合おう。そしたら気づけば世界平和だよ。

雪だるまだって、あの顰めっ面の裏でそんなことを考えていたはずだ。なにせこの私が丹精込めて作ったんだから。私の代わりに死んでくれてありがとうね。というわけで、私はこの出来事を必ず書き残して多くの人に伝えようと決めていた。でも後半の気持ち悪い自我の部分がもちろん一番書きたいことですからね。雪だるまは私の分身として代わりに犠牲になっただけ。他に書きたいことがいくらでも浮かんできて仕方なかったけど、全部が全部気持ち悪かったので(もちろんこれも含め)下書きを見てげっそりした後、今までの気持ち悪い投稿を全部消して居なくなろうか(ある意味での死)と迷って踏みとどまって(偉い。成長したね。)結局こんなものを書いている。なんなんだろうか。今週は気持ち悪い週間です。自己否定と自己肯定が止まらなくて衝突して押し潰されてすごく息苦しいけれども幸せかもしれない。相反する自分同士の喧嘩に振り回されて意味分からんくなるのはいつものことです。脳みそからは逃げられないから。最悪だね。どんな形でも構わないからあなたの思う幸せになってね。それが全てを壊すことでもいい。


「私の脳みそに致命的な欠陥があることを感じてくださいね。致命的な欠陥があることを一生忘れないでくださいね。欠陥があることを永遠に愛してくださいね。気持ち悪くしか生きられないことこそ本当に生きているということ。ただ気持ち悪く生きて誰かの記憶に残りたいだけ。」


雪だるまはまるでいなかったみたいに全部溶けたよ。生き物もそうじゃないものも全部いつかああなるんだ。ねえそのことについてどう思う?気になる。聞かせて聞かせて。それでも愛し合おうね。そうするしかないからさ。やるせない。安心する。


あああ嬉しい。私にはこんなに気持ち悪い文章が書けるから、死なない意味、あるよね。

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