加藤和彦はなぜ死んだのだろう ~「トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代」感想

加藤和彦のドキュメンタリー映画を観ようという気になったのは、我が心の友から映画の存在を知らされたのがきっかけだった。映画が公開されるという話は以前から知っていたし、書店に行けば加藤和彦の本が平積みされていたから、意識しないではなかった。それなのに映画館に足を運ぶ気にはならず、いつしか忘れていたのはどうしたことか。映画の話を聞いたのは夏の頃で、心の友から改めて聞かされたのは十月だった。全国で上映される種類の映画でないことは明らかなので、もう手遅れだと痛感した。それでも衝動的に「加藤和彦 映画」と検索すると、命日に合わせて追加上映が近日敢行されるという情報を得た。逃した魚は大きいとはよく言うが、逃したかと思えたものがもう一度現れたら是が非でも飛びつきたくなるものだ。それが映画を観る大きな要因だった。その心理の影には、加藤のファンであることを心の友に知られていながら、映画を観ていない自分に引け目を感じていたからである気もする。もっとも心の友は直後に、ドキュメンタリー映画にそこまで興味がないということを言ったため、私も同じ調子でいれば良かったのだが(友には何の策略もなかっただろう)。いろいろな心の動きはあったとはいえ、やはり根底には、私が加藤和彦の音楽に長く親しんだという事実が大きく存在する。

私が加藤和彦の名を認識した時、加藤は既に第一線のミュージシャンではなかった。訃報を知った時も、ぼんやりとテレビや新聞記事を眺めていただけだったように記憶している。ただし加藤の死の前から加藤和彦の音楽には触れていた。「悲しくてやりきれない」「あの素晴らしい愛をもう一度」を聴いて、私は純粋に良い曲だと思った。当時の私はフォークソングに興味を示していたので、「あの素晴らしい愛をもう一度」のようなくぐもった感触の音は、まさに私の欲するところだった。くぐもったとは、加藤と北山修の歌唱力の賜物だろう。それ以上に私は、この曲で絶えず聞こえるパーカッションの音に心地よいものを感じていた。これは私のドラムへの興味からだった。話は前後するが、今回映画を観て「あの素晴らしい愛をもう一度」で聞こえる「ドンドドン」というリズムが、サイモン&ガーファンクルのThe Boxerに由来しており、加藤はこのリズムを自分の専売特許だと言っていたことがわかった。私がパーカッションと判断した音の正体は、ソファーの音らしい。音の発生源はともかく、かつての私が「あの素晴らしい愛をもう一度」を聴いて、まっさきにリズムに注目したのは、なかなか良い着眼点だったのだとわかり、嬉しいものがあった。

かつてフォークソングに親しんだ私は、いつしかテクノポップに目覚めていた。それはYMOに傾倒するのと同義だった。一度はYMO以外は音楽ではないという観念にとらわれそうになっていたが、それは正しくないと思い、同じ系統の音楽を聴いてゆこうとした。そうする中でテクノポップのディスクガイド本を見つけた。テクノポップとは今の私が使わない言葉で、その本にて紹介されているアルバムの多くはニュー・ウェーヴとかシンセ・ポップとかいうジャンルに当てはめるべきだろう。この手の音楽はジャケットに統一感があるというか、面白いものが多いため、見るだけでも楽しめた。そうしたアルバム群の中に「加藤和彦」の名を見つけたのだから、私は驚いたというより、場違いなものに当惑した。
細野晴臣が1982年に出したアルバムに「フィルハーモニー」というのがある。ジャケットには細野晴臣の顔写真が、鮮明ではないが写っている。昔、私が手にしていた「フィルハーモニー」のCDを見て、私の祖母が「それ、ミッキー・カーチスか」と問うてきたことがある。そう言われると似ていなくもない。
ミッキー・カーチスといえば加藤和彦よりも古くから芸能界で活躍している人だ。それでも私にとっては、ミッキー・カーチスも加藤和彦も同じくらい古い人だった。対するYMOは私の中で真に新しい人たちだった。実は加藤和彦と細野晴臣は同い年なのだが、そんなことは知るよしもなかった。私の中でのイメージは、加藤和彦という老人が、自分の権力をつかって若いYMOに近づいて、冷や水を被る真似をしているというものだった。「あの素晴らしい愛をもう一度」という、いかにも古めかしい歌を歌っていた加藤和彦に何ができるというのか。私は加藤和彦と小原庄助を重ね合わせた気持ちで、書を閉じるばかりだった。
それでも、ブックオフで「うたかたのオペラ」を見つけるなり、迷わず握り締めて購入した訳は、私の知的探求のためだった。聴いた当初は、特にテクノでもないサウンドに感銘を受けることはなかった。唯一のインスト曲である「S-Bahn」に多少の興味を抱いた程度だった。しかし、次第に随所で聞こえるシンセサイザーが並大抵の使われ方ではないことに気づいて、一気に評価が変わった。
「ルムバ・アメリカン」という曲のイントロで聞こえるシンセサイザーは、音色自体はいかにもシンセサイザーという響きだ。それがテクノとはまったく違う曲調に重なっても違和感なく溶け込んでいる。そうした奇跡の融合とも言えることが、「うたかたのオペラ」全体で成立していて、私にとっては小さくない衝撃だった。ニュー・ウェーヴにはまだこういう試みが残されているのだと思った。「Puttin On The Ritz」という古い曲を80年代風に採り上げたタコ(Taco)が下世話の調子をもっていたのとは一味違う。「うたかたのオペラ」に似ているアルバムはあまりない。強いて挙げるとすれば、Mの「Official Secrets Act」。それから意外なところで、キム・カーンズの「Mistaken Identity」にも近いものがあると思っている。つまり、プロフェット5が効果的に用いられているという点で、共通していると感じるのだ(もっとも、「Mistaken Identity」でプロフェット5の音が存分に聞けるのはDraw Of The CardsとBette Davis Eyesくらいだった気がする)。
加藤和彦について語るとスノビズムという言葉が決まって出てくる。お高く留まっている印象のある加藤と、冷たい響きのあるシンセサイザー・ミュージックとの組み合わせは、かなり有意義なものだった。

記事を書くにあたり、「うたかたのオペラ」への評価についてインターネットで調べていると、発表当初から一貫して凡作だと評している文章を見つけて、案外に思った。第一に耳を惹くメロディーがなく、それをカヴァーする歌唱力が加藤にはないという評言だ。いくら反論しようと感想の言い合いにしかならないことは承知だが、私はこのアルバムの収録曲のほとんどを歌うことができる(歌詞はまともに見ないのでわからないが)。加藤の歌唱力についても、「うたかたのオペラ」に関しては下手だとは感じなかった。「ガーディニア」や「あの頃、マリー・ローランサン」を聴くと、それにしても拙いと感じてしまうのにも拘わらずだ。その理由として、「うたかたのオペラ」での加藤の歌声には加工が施されていることが多く、声が前面に出ないサウンドになっているというのが一つ言える。それだけでなく、このアルバムで実践されているのが加藤なりのニュー・ウェーヴだということを忘れてはならない。ニュー・ウェーヴというのは歌唱力が二の次の音楽といっても良い。歌の巧い人がいないわけではないにしても、歌唱力目当てでニュー・ウェーヴを聴くのはお門違いというものだ。「うたかたのオペラ」は、加藤の歌唱力がマイナスにならない音楽性に寄り添っているという点で成功している。
「うたかたのオペラ」を凡作だと断じた者はどこの素人かと思い、筆者について調べたところ、それなりに名の通った人物だった。この人物の音楽観については、ある程度理解できたので、機会があれば記事にしたい。現時点で言えるのは、自らが標榜する音楽観と、実際に好きになる音楽とが合っていないということだ。


このように、熱心に加藤和彦の作品を擁護したくなるくらい、私は加藤の音楽を良いものだと思っている。あまり日本のものを聴かない私でも、特に不満なく聴ける音楽の一つとして、信頼を寄せているのだ。
加藤和彦の音楽は信頼できても、加藤和彦という人間がいかなるものだったのか、私は充分に知っているとは言えない。何も知らないわけではないが、謎の残る人だ。映画では、私の知らない加藤和彦の一面が穿たれているのではないか。そういう期待をもって、私は映画館へ足を運んだ。観客が多くないことも、年齢層が高めなことも想定内だった。

結論から言うと、私が知りたかったことはほとんどわからなかった。加藤を知る者たちの証言を集めるという構成なので、当然ながら全員が老人だ。年老いたぼそぼそ声を聞いていて、果たしてこの人は今なにを言ったんだろうかと思う瞬間は幾度もあった。映画では頻繁に加藤の作り出した音楽が流れるのだが、曲がフェードアウトしない内に証言者の声も重なるので、ここが一番聞き取りづらかった。これは私の聴力とか、館内の環境とかのせいである可能性もある。ただ一つ言えるのは、映画を観るまで私は周囲の物音が聞こえづらいと感じたことはないし、それは今も同じだということだ。私は映像を観ながら、耳に片手をやって声を聞くことに集中していた。

肝心の証言を聞くと、これまでに何度も聞いた話ばかりだった。加藤和彦のがつくり出した音楽はいかに進んでいたか、日本のロック/ポピュラー・ミュージックの将来を見据えていたかという功績が時系列で説明されている。
「イムジン河」が発売中止になって、「悲しくてやりきれない」を急いで作った話。ミカに一度ねだられただけでロールスロイスを輸入した話。自分の曲を世に出したいという時、加藤宅を訪れれば何とかしてくれたという泉谷しげるの回想。日本で初めてPAを導入した話。録音メンバー全員が、合宿する形で海外へ行くことで得られる緊張感や高揚感によって、普通以上のサウンドが得られるのだという「ヨーロッパ三部作」を語る上で欠かせない話。鍵盤奏者が呼ばれると、イントロから全体のアレンジまですべて譜面を書かされるという話。シンセサイザーのダビングの際は、奇想天外な言葉選びでサウンドを要求されるという清水信之の証言。こうした話は、既に聞いたことのある話だった。既出の連続という感じで、私にとっては復習となった。初めて聞く話もあるにはあったが、補遺の域を出なかった気がする。

若い加藤和彦が映る映像も流れたが、見たことがあるものも少なくなかった。これはYouTubeの恩恵というものだ。そうなるとドキュメンタリー映画のありがたみが半減するようだ。もしや映画で使われた映像のソースはYouTubeなのではないかと邪推したくなるほどだった。
それでも見慣れないものもあった。「パパ・ヘミングウェイ」発売の際に作られたコマーシャル・フィルムがそれだ。アルバム・ジャケットが静止画で映っていると思えば、ズームアウトして加藤和彦の姿が現れる。ジャケットに見えたものはいわゆるカチンコで、加藤が激しく音を鳴らした途端に音楽が流れる。古めかしいピアノを弾く加藤が、鳥瞰で映し出される、このような演出だった。出来がどうこうではなく、芸能人の若い頃の姿を見ると妙に嬉しくなる癖のある私にとっては、最も楽しめた部分だった。
加藤が高橋幸宏と坂本龍一と大村憲司とともに、訪れた80年代について語っている映像も初めて見るものだった。映像が鮮明でないことは却って趣があった。肝心の話し声はあまり聞き取れなかったが。とにかく、長身で短い髪を丁寧にセットしスーツを着こなす加藤は、かなり見栄えが良かった。私が見たことのある加藤の映像や写真の中でも随一の容貌だと思う。他の三人も無闇に若い。話を半分聞き流しているような態度で、椅子に坐ってアンプに繋がっていないギターの弦を鳴らす坂本龍一は特に無邪気だった。齢を重ねて、昔の自分に会ったらぶん殴ってやりたいと相変わらず物騒なことを言っていた坂本だったが、確かにあの映像に映る姿は傲岸不遜と言えた。そういえば坂本龍一は、弾けもしないギター(とドラム)を弾きたがっていたと私は思い返した。そして映像に映る四人全員が故人となっている現実に愕然とさせられる。


私が加藤和彦の映画に何を期待していたのかといえば、加藤がどのようにして自死へ向かったのかという謎解きだ。先にも書いた通り、私の当てはほとんど外れたわけだが、多少の収穫はあった。加藤が大学生だった頃、音楽家としてはアマチュアだった写真を見ると、眼鏡をかけていたではないか。眼鏡自体は特に驚きではないのだが、極めて若い頃の加藤和彦の横顔は、私の知っているエレガンスに傾倒する紳士ではなかった。学生時代から加藤を知る北山修は、当時の加藤が居場所のない人だったのではないかと考察していた。それは、東京からいきなり京都に移り住んだこともあり、主に音楽方面での趣味もあり(この辺は記憶が定かでない)、加藤の身長が当時としては高すぎるものだったということもある。変に目立って、他とは打ち解けない様子だったのだと北山は解釈する。真相はともかく、当時の加藤の顔は何だか寂しそうに見えた(元から顔つきが濃くないこともあるのだろうが)。私はこれが加藤和彦の本質なのだと捉えた。二度と同じことはやらないと豪語したように、加藤がひたすらイメージの定着を嫌ったのは、若い頃の落ち着かない日々に原点があるのかもしれない。とりあえずの理解をした。
後半でも北山は、加藤の死について、「本当の自分が何なのかわからくなっていたのではないか」という考察をしていた。私は北山修の言葉を否定したいわけではない。というか、判断する材料が劇中にはほとんどないのだから、何とも言えない。映画で語られているのは、加藤和彦がいかに才人であったかということばかりで、そこにひそむ陰影はなかなか見えてこない。先にも書いた通り、知っている話が多く、先へ急がせようとする相槌を打ちたくなるほどだったのだから。

加藤の華美な人生に焦点を当てるにしても、半端なものであるように感じた。映画でしっかりと語られているのは「うたかたのオペラ」までで、次作「ベル・エキセントリック」になるとまともに採り上げられていなかったはずだし、「あの頃、マリー・ローランサン」以降になると一切登場しないのは意外だった。実際、加藤は貴族でもないのだから、華やかな生活というのもどこまでやり通せたのか微妙だ。好意的に触れることができるのはヨーロッパ三部作の時代までなのかもしれない。しかし、音楽家としては80年代のある時点までは充実していたように見えるし、そうでないとしたら敢えて暴くくらいのことはしても良かったのではないか。
再婚相手である安井かずみとの死別も、三人目の相手となった中丸三千繪との出会いから破局までも、サディクティック・ミカ・バンドの再結成も、晩年のバンド活動も、一切語られなかった。私を含む後追いの人が知らないのはこの時期のはずだ。この辺の時代についてもいくらか言及されているに違いないと疑わなかった私は、肩透かしの気分だった。

齢を取った加藤和彦の姿も、ないことはない。それは申し訳程度に挟まれた料理編でのことだった。料理人(名前失念)が出てきて、加藤和彦はとにかく料理を、味を理解していたというのだった。一人はチーズ作りに勤しんでおり、加藤もそれに協力していたのだという。加藤の料理趣味が若い頃からのものだということは私も知っている。だから、料理人が言っているのは、80年代、進んでも90年代の加藤のことを指しているのだろうと思った。しかし、当時の写真として挿入された加藤たちの姿を見て驚いた。加藤は薄くなった髪を金に染めており、明らかに晩年の姿だったのだ。晩年とは言ったが、実際にいつの時期なのかはわからない。それもこれも、2000年以降の加藤の活動をあまり知らないからだ。
料理方面のことについて語られている場面が続くのを見て、私は正直に言って退屈を感じた。これはまだ続くのかと思った。そう思う原因は、料理研究家としての加藤が、音楽家加藤と全然結びつかないことにあった。加藤が実は料理を理解していないと言いたいのではない。人としてあらゆる面があると捉えることに少しも無理はない。ただし、先ほども「申し訳程度」と書いたように、料理部門はそこまで映画に登場しないし、他の場面と有機的に繋がっているとも感じなかった。そのため、いささか唐突で、妙に間延びしているのだ。構成もなんだか変で、直前まで音楽のことで語られていると思えば、突然料理になり、また何事もなく音楽に戻っていたので、意味もなく浮いていた。
これはどういうわけだろうと私は考えた。そして得た結論は、音楽好きは美食にこだわらないのではないかということだった。こんなことは人それぞれなのだが、加藤の周辺人物に、加藤に並んで食の追求をしたミュージシャンがいたのかと考えると、どうも居ない気がする。実際、映画では多くのミュージシャンが証言をしているのだが、料理について言及する人は一人もいなかったはずだ。そして料理のことになると、その筋の人だけが登場するというありさまだ。だから料理・食事方面の加藤は、音楽家としては孤独でしかなかったのではないかと思った。
例えば、坂本龍一はどうだろう。1985年に公開されたドキュメンタリー映画に、「TOKYO MELODY」というのがある。ここでは「音楽図鑑」を制作している時期の坂本龍一の姿が映し出されている。坂本が音響ハウスにて自在に機材を操っている中で一か所、坂本が食事をしているシーンがあった。レコーディングしたものをプレイバックしている最中に、確か坂本はチャーハンか何かを食べていた。食べながらミキシング・コンソールを弄りもしている。その姿に食へのこだわりは見られなかったし、腹に入れば何でもいいという勢いだった。要するに坂本は、そういう食事をする場合があっても平気でいられたということだ。加藤和彦が同じことをやったかというと、私には断定できないが、どうもやらない気がする。「ベル・エキセントリック」の録音の際に、わざわざシェフを呼んでレコーディング・メンバーに食事をさせたほどだったのだから。
ミュージシャンは酒にはうるさいかもしれないが、食べる方になると雑になるのかもしれない。それに対して加藤はかなり異質だったと思う。ファッション方面で加藤の着こなしに、刺激を受けただろう高橋幸宏も、料理になるとついて行かなかったのではないか。そんな風に思う。


ヨーロッパ三部作について語り終わると、高田漣と高野寛が二人で登場し、「あの素晴らしい愛をもう一度」について語り始めた。何やら演奏まで始めている。登場する人のほとんどが比較的新しい人ばかりで、新展開かと思ううちに、これがエンディングに向かっているのだとわかった。もう少しは続きがあると思っていたため、道半ばで終わった感じがする。
要するに「あの素晴らしい愛をもう一度」を新しくレコーディングすることで、映画を閉じようという目論見なのだった。何はともあれ一段落ついたのだと私は理解した。消化不良な気はしたものの、綺麗にまとめようという意志はあるのだと受け取った。
歌手は何人も登場しており、フレーズごとに歌い回すという方式だった。坂本美雨、石川紅奈という
った女性の声も入り、随分達者に歌えるのだなと思うばかりだった。
そんな中で、一か所だけ加藤の声が出てきた。正確に記憶していないが、「赤とんぼの歌を歌った頃は」のくだりだっただろうか。原曲は北山修と一緒に歌っていたはずだが、映画で聞こえたのは、やけに鮮明な加藤一人の声だった。最新の技術で抽出できたのかもしれないが、確かなことは知らない。ともかく、私は加藤の歌声を聞いて、思わず泣きそうになった。それこそ「涙が知らずに溢れてくる」のだった。これこそポピュラー・ミュージックの極意だと思った。ポピュラー・ミュージックをやる上で大事なのは、歌の巧拙ではない。加藤の歌は、エンディングで登場した歌手の誰よりも貧弱で不安定だったが、最も人の心を震わせる力があった。少なくとも「あの素晴らしい愛をもう一度」に関しては誰も負けないものがある。私は快いものを感じた。
ところが、最後に「あの素晴らしい愛をもう一度」と繰り返す箇所で、私は唖然とした。歌手として参加した高田漣、高野寛、坂本美雨、石川紅奈、北山修はもちろんのこと、その場に居たスタッフを含めた全員がスタジオに集まって、斉唱をしているのが映されているではないか。この瞬間、私は直感で「これは駄目だ」と思ってしまった。斜に構えようとか、そういう意識を起こす暇もなく否定していた。こんなことをするから加藤和彦は死んだんだと、時系列が無茶苦茶な、あり得ない感想までよぎった。

「あの素晴らしい愛をもう一度」は、三人以上で歌ってはいけないのではないか、と私は思う。この歌は、今や音楽の教科書で掲載されており、明日もどこかで合唱されているに違いない。そういう点で私の主張は崩れる。それにしても、加藤和彦という人間がいて、その人に焦点を当てた映画で、この曲をみんなで歌うというのは、どうも惨いことに思えてならない。結局、加藤は誰とも心が通わない路を選んだ。どんなに大勢で歌おうと、もう加藤には伝わらないのだ。そのことを意図しているとしたら、恐ろしくも正確だと思う。みんなで歌えば歌うほど、加藤和彦の人生において、「あの素晴らしい愛をもう一度」という歌は完成する。
もちろんこの曲は(普通に解釈するなら)恋愛の歌だし、作詞は北山によるものだ。この曲を歌った当初の加藤は、人生をひどく悲観することもなかっただろう。それが時を経て、加藤が死に、映画のエンディングでもそうだったように、みんなが加藤抜きで歌うようになった。個人的なこと(人間関係ではない)で「心が通わない」と感じたことがある私にとって、このエンディングは相容れないものだった。


加藤和彦は遺書で「世の中は音楽を必要としていない」と書いた。ここでの「音楽」とは、自分の信じた音楽、自分の好きな音楽と解釈すれば良いだろう。加藤の書いたことは、私も同意するところだ。私もまた、自分の好きな音楽が、現代にまるで生きていないことを実感している。
誰よりも先をゆく人として生き、レゲエを日本で最初にやった人とも言われた加藤だが、ある時点で時代とともに歩むことはしなくなっていたに違いない。「あの頃、マリー・ローランサン」で、加藤はニュー・ウェーヴに傾倒することなく、自然なポピュラー・ミュージックに回帰した。こういう回帰はミュージシャンにとって危険と言えるもので、それ以降の歩みを遅々としたものにする。ビリー・ジョエルが「アン・イノセント・マン」で、自分が好んだ60年代の楽曲を下地にした曲作りを見せたことも、一つの回帰であり、停滞の例として挙げられるだろう。それ以降、ビリー・ジョエルは寡作になる一方だった。加藤もまたほとんど同じ状況になり、1991年に最後のソロ・アルバムを出して沈黙した。「あの頃、マリー・ローランサン」は1984年作で、「アン・イノセント・マン」が1983年作と、ほとんど同時期であることも興味深い。要するに、音楽は80年代前半で一つの終焉を迎えているのだ。余韻は1985年あたりまで続き、それから先はヒップホップの色がいよいよ最前線になる。新しい楽器だったシンセサイザーも、デジタルシンセ一色になり、もはや脱シンセの動きも見えて、醒めた感じがでてくる。
常に新しいことをすれば良いのだとしたら、加藤はヴォーカロイドに手を出していれば良かっただろう。加藤が初音ミクを知っていたかどうかはわからないが、知っていたとしても使う気にはならなかったのではないか。それはヴォーカロイドが自分の好きな音楽から逸脱しているからだ。歌唱力に問題のあった加藤がそれでも歌い続けたのは、ポピュラー・ミュージックが不正確なものであることを知っていたからに相違ない。音程はもちろんのこと、人間の力によるリズムの微妙なズレ、緩急がダイナミズムを生み出すのだと信じていたのだ。だからあれほどバハマやベルリンやパリに行って、そこで感じ取ったものを音楽に生かすといったことを目標としていたのだ。今やそんなことは滅多にできるものではない。

加藤は昔の歌を延々と歌い続けて、銭を儲ける生き方などしたくなかったのだろう。そういう人達を見下してすらいたのではないか。音楽業界には、幾人かのレジェンドがいる。細野晴臣は、かなり最近まで新しい音楽をやり続けることができた。山下達郎は加藤に負けないくらい頑固な人間だが、ヒット曲はある(小田和正もこの枠に加えてもいいかもしれない)。ヒット曲がないと嘯く大瀧詠一は、ひたすら同じ音楽を追求して、ひたすら隠遁の路を選んだ。本当にヒット曲がないムーンライダーズは、今もどうにか続けることを選んでいる。加藤の位置はどちらかといえばムーンライダーズに近かったのかもしれない。しかし加藤には「悲しくてやりきれない」「あの素晴らしい愛をもう一度」というみんなのうたがある。加藤が数十年間豊かに暮らせたのも、最初の活躍があったからであり、そう簡単には否定できないものがある。二度と同じことをしないという信念を抱くのは良いが、やはり昔の人として懐かしの歌を歌い続ける自分を棄て去るのは難しかったのではないか。

実のところ、私はなんだか恐ろしくなっている。ここまで加藤のことを分かった気になってあれこれ書ける自分が恐ろしい気がする。以上に書いたことは、婉曲的に自分のことを語っているのではないか。もちろん私は加藤ほど贅沢な暮らしなどできないのだが、いろいろなところで精神が通っているように思えてならない。しかし私は加藤と違って、今も生きている。私は加藤を反面教師にして生きるべきなのではないか。そうすることで、死ぬつもりのない私が、今後も生きる意思を絶やさずに明日を迎えられるのではないかと思う。不相応な虚飾を自らに施してはいけない。それが破綻したとなれば、それはすべて自分のせいなのだとして、素直に立て直すべきだ。人に迷惑がかかることはどうしてもあるし、そうなればあまりに不甲斐ないが、それでもどうにかして生きるしかない。私の加藤和彦研究は今後も続きそうだ。

いいなと思ったら応援しよう!