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【2017年星新一賞落選作】ネットハザード(後編、3952/7365文字)

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 スクァイ社のセキュリティ部門担当専務である延岡のべおかは、部門の担当者を会議室に緊急召集した。セキュリティ部門の主任の柳田やなぎだが長方形の会議室の上座にたち、その隣で延岡が椅子に腰掛けている。柳田が、現状のアイボーの不可解な動作状況を資料を投映しながら説明した。
 柳田の現状説明が一通り終了したあと、背もたれに身体を預けたまま、延岡が会議室を見回した。柳田が会議の参加者に向かって言う。
「質問とか意見とかあるかな。」
 会議室の末席の方から、若い男性技術者が発言する。
「新種のウィルスなんでしょうか。」
「その可能性は捨てきれないが、今までのウィルスとは全く異なる。」
「どう違うんですか。」
「まず、ウィルスと定義するには、これまでのウィルスとは動作が異なるし、アイボーにはウィルス感知の機能も搭載されている。そして、アイボーだけの問題ではなく、ネットワーク上の全般に不審な動作が続いている。」
 会議室の中にざわめきが広がるが、発言するものはいない。その様子を見て、延岡がおもむろに言う。
「何か具体的な原因なり、解決策を皆さんから提案して欲しい。」
 たいていの場合、延岡が出るような会議は方針がすでに決まっていて、それを担当者たちに周知するための会議であるのだが、今日の会議では本当にみんなの意見を聞きたいようだ。というより、有効な手立てがないのが実情だろう。
「あのぉ…。」
 七郎が手を上げた。
「君は誰だ?」
 柳田が訝しげに訊いた。
「バイトの都築つづきと言います。」
「バイト? バイトの奴が、なぜこの会議室にいる。」
「ちょっと通りすがりで…。」
 柳田が怒声を上げた。
「何でバイトごときがここにいる。誰かそいつをつまみ出せ! この会議は最高機密なんだぞ。」
 しかし、延岡がそれを押しとどめる。
「他の意見がないんだ。聞いてみてもいいじゃないか。」
 渋々、柳田は椅子に腰を落とす。会議室の最も下座から七郎がおずおずと話を始める。
「あのお、今説明を受けた現象を医学的に診断というか、私の医師としての所見を申し上げますと…、間違いなく癌だと思います。」
「がん!」「ガン!?」
 会議室内のそれぞれが『癌』という単語を口に出した。そのざわめきが小さくなるのを待ってから、七郎は話し始める。
「私は、半年ぐらい前まで東涼大学病院の医師をしていました。今は、この会社で、医療関係のAIを開発するためのお手伝いをしています。私の専門は、人間の腫瘍、つまり癌です。皆様は、癌がどのように体を蝕んでいくかをご存じでしょうか。」
 七郎は少し間を置いて、会議室内を見渡す。
「人間の体というのは、人間の身体は六十兆個もの細胞から成っています。人間の身体の様々な部位の細胞が、毎日寿命を迎え、遺伝子情報に基づいてコピーが繰り返されます。そうして、およそ九十日~百二十日ほどで、全身の細胞が新しいものに入れ替わります。それぞれの細胞には遺伝子があり、分裂や分化、増殖、人間が成長したり、生命を維持するための情報が含まれています。時にはこのコピーを失敗することがあります。多くの健康な人間の場合、このミスコピーはすぐに消去されます。体内にはこのミスコピーの有無を監視する仕組みがあり、異常な細胞を取り除くことによって正常な状態を保つようになっています。
 しかし、不健康な状態であったり、いわゆる発癌性物質のせいで、大量にミスコピーが生み出されることがあります。そしてこの監視の目をすり抜けたミスコピーが、無制限に増え、他の場所に転移する能力を持つようになり、何年もかけて数を増やして悪性腫瘍、すなわち、癌となるわけです。癌というのは健康な身体に不用な細胞でありながら、身体の中で増殖していき、人間の栄養や機能、つまり生命力を蝕んでいきます。」
 セキュリティ部門の主任の柳田が不満げに声を上げる。
「延岡専務には申し訳ないですけど、今、癌の何たるかの講釈を聞いている暇はないです。こんなことを聞いている間に、早急に対策を考えなければ…。」
 柳田の声に負けないように、七郎は大きな声で言う。
「今のネット上で起きている不具合というのは癌の症状そのものなんです。比喩的に地球を人間と見立てて言うならば、日本という部位、臓器が今癌に罹患してしまったということです。」
 会議室の面々から小さなどよめきが湧いた。と同時に、少なからぬ失笑も漏れている。
「私は、新種の強力なウィルスだと思ってますけど…。」
 横手の席から、すこし嘲るように意見が出た。
「私はコンピューターウィルスには詳しくありませんが、医学的には癌とウィルスは異なります。」
「その、なんだ…、ネット上に『癌』が発症した要因は何ですかな。」
 柳田が疑念を抱いた顔を隠そうともせずに、慇懃無礼な調子で訊いた。
「それも私にはわかりません。人間の癌だって、要因を突き止めるのに何十年もかかってますし、いまだに全容を解明できたわけではないのです。」
「じゃあ、どういう対策が考えられますかね。」
 また、別な場所から揶揄するような発言が出る。
「人間の癌については、現代では癌細胞にだけ作用して癌を治癒する薬が実用化されています。」
「人間の癌の話じゃないでしょ。」
 七郎はさらに大きな声で話を続ける。
「二十世紀においては多くの場合、最も原始的で最も有効な癌の治療法は、癌細胞に冒された部位を切除することでした。そして、偉大な先人たちのたゆままない努力によって、現在は臓器を切除することなく、癌を治療することができるようになったんです。しかし私は、今、日本のネット上に発生した癌に対して、当然ながら、有効な治療法や薬があるかどうかを知りません。今、現在の奇妙な現象を癌として捉えるならば、早く治療しないと、他の部位へ転移する可能性が考えられます。」
「他の部位への転移って何だぁ?」
 柳田が苛ついた気持ちを隠しもせずに言った。
「つまり、ネットワークを介して、世界中に広まってしまうということです。」
 七郎が熱くなればなるほど、会議室内にはしらけた空気が広がっていった。
「だから、ドクター・つ・づ・きが考える有効な治療法は、何なんですかね。」
「だから、今言いましたように…。」
 会議室内のざわめきがさらに大きくなり、収拾が付かなくなる。延岡が立ち上がった
「みんな、落ち着け。」
 しかし、会議室内の喧噪は治まらない。延岡はテーブルを両手で叩く。会議室中にその音が響き渡った。
「みんな聞いてくれ。」
 会議室内はわずかに静寂を取り戻した。
「都築先生は癌の分野では優秀な研究者であり、癌の治療に関しては名医であることは身をもって知っている。一年前に私の癌を治療してくれたのは、実は都築先生なんだ。都築先生の的確な診断と所見、そして治療のおかげで、私の癌のステージが進んでいた割にはほんの一か月ほど入院するだけで、仕事に復帰することができたぐらいだ。あぁ、もちろん、経過観察のために、病院通いを続けている。そして残念ながら、私の信頼する名医はもうその病院にはいないがね。だから、今のネットワーク上の不可解な現象に対して、都築先生が癌と診断したなら、それは癌に間違いないと確信している。もちろん、人間の癌とは違うだろうから、治療法は人間とは異なる方法になると思う。コンピュータウィルスとは異なる、ネットワークの癌の治療法を、ここにいるみんながぜひ考え出して欲しい。」
 延岡の言葉に、異見を唱えるものが無く、会議室内は重たい空気に包まれていた。新たな脅威に対する具体的な対策案が出ないまま、会議は終了した。

 ***

 翌日の朝、七郎と百合は再び自転車で再びスクァイ社を目指した。前日の筋肉痛が、下半身だけでなく七郎の体中を蝕んでいた。
 首都圏の混乱は、前日にさらに拍車を掛けた状態と言えた。朝から大規模停電となり、電車が不通になるだけではなく、道路の信号も消えている。テレビはかろうじて放送をしているが、時々画像が静止したままとなり、音声も途切れ途切れだ。AMやFMラジオ放送は、かろうじて放送が続けられている。日本政府は首都圏の混乱を重く見て、緊急事態を宣言した。
 百合の会社は自家発電によってかろうじて業務の遂行が可能な状態だった。百合と柳田は朝一番に延岡専務に呼ばれた。延岡からの要請で、七郎も専務の部屋に行った。
「東京だけでなく、日本全体に、コンピュータの奇妙な現象…、つまり癌が広がっているようだ。情報信号の血管、つまりネットワークを介してそのうち世界中に広がるかも知れない。せめて日本国内から広がらないように、早く対策しないとならない。都築先生、どんな対策が考えられますかね。」
「ですから、昨日も言いかけましたように、有効な治療法や薬がないとしたら、二十世紀と同じ、最も原始的な方法しかないんですよ。」
「そんな持って回った言い方じゃなくて、ちゃんと言ってよ。」
 百合が眉をひそめるようにして苦言を呈する。
「切除するということだ。」
 そう言う七郎の顔は至極まじめだ。
「切除というのはどういうことだ。」
 まだ、疑心暗鬼の表情を崩さないまま、柳田が訊いた。
「人体の癌に関して言えば、癌に冒された部位を全て切り取ることです。もちろん、その範囲を決定することは、人体においても簡単ではないです。いろんな検査をして…」
「人間の癌の話じゃないよ! この現象に対して、どんな対策を打つのが効果的なのかが知りたいんだ。」
 柳田は、怒りを爆発させるように言った。
 延岡は、腕を組んだまま椅子に背を預けていた。大きく息を吐くと、独り言のように、しかしそこにいる三人に聞かせるように、柳田が言った。
「他に対策が考えられない以上、それしかないんだろうな。」
「それって、延岡専務…、まさか…。」
「そうだ、切除するんだよ。地球という体から、日本という臓器を切除するしかない。政府にはそう進言しようと思う。」
「このデジタルの時代にそんなことができるわけがないじゃないですか! 全てが、本当に全てのことがコンピュータにつながっている時代なんですよ。こんな時代に、電子ファイルを全て消して、全てのコンピュータをネットワークから切り離せというんですか。」
 柳田は泣き崩れそうな表情だった。

 ***

 政府への連絡を終えたあと、延岡は覚悟した表情で七郎に言う。
「都築先生が私の体を直してくれたような再生医療を考えようと思ってます。」
 他の三人は、怪訝な顔で延岡を見る。
 二〇二〇年頃から人工多能性幹細胞を利用した再生医療が実用化され始めた。癌に冒された部位を切除したとしても、その部位を再生する治療法が癌治療の最前線で実用化されつつある。延岡自身もその再生医療の恩恵を受けていた。
「日本は盲腸なんかじゃない。地球にとって必要な臓器のはずだ。だから切除した日本を再生するんですよ、都築先生。もしかすると、日本がもっとずっと健康な臓器になる可能性だってある。」
 そう言う延岡の顔は、期待に満ちあふれる若者のような表情だった。

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鳴島立雄
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