偲んで遺す
何度も通ったはずの明治神宮前近くの駅、歩道橋の先に見えたビルは薄青く発光し夜空に映えていた。
見慣れたはずの景色がなんで新鮮に感じたのだろう。
新鮮な風景を写真に収めようか、少しの逡巡ののち代々木公園まで歩き出す。
公園の中に入った頃には、さっきのビルは私が東京に住んでいない時に渋谷駅前に出来たものだったことに気づく。
なぜ新鮮に感じたのか腑に落ちるとほぼ同時に、きっとこの感動も長くは続かないと諦めでもなんでもなく思う。
私は忘れっぽい。
昨日食べたものも、自分が発言したあれこれもすぐに忘れて無責任に笑って毎日を過ごしている。
忘れたくて忘れているわけではない。
思い出や記憶は、すぐに何が描いてあるかわからない抽象画のように色味だけ残してぼやけてしまうのだ。
信頼していた知人の訃報が届いたのは年明けだった。
彼と交わした何気ない会話の記憶はいずれ薄れていく。
ただでさえ私は忘れるということと近い場所に暮らしているのだから。
毎朝起きて、今日は「彼が生きていたらやりたかったことがあるはず」、
だから今日は私も大切に過ごそうと無責任に人の不在を昇華しようとしていた。(そんな昇華の仕方望んでいたのだろうか)
私が忘却を恐れて過ごしていた先月。
偶然が重なり、自分の働いている会社の雑誌に彼の歩みや目指していたものを書けることになった。
何度かの確認と修正を終えて印刷に入る。
大手印刷会社の凄みを感じさせるほどのスピードで、刷り上がってきた誌面を見て思った。
「のこせてよかった」
感じたのは紙の価値だった。
書かなければ紙には残らない
紙の媒体は、記録性が高いというのは頭では分かっていた。
それでも、実際のところ腹落ちできていなかったと思う。
彼がそこに存在していたことがインクで印刷されている。
この事実は忘却に怯えている自分にとって大きなエールとなって響いた。
きっと多くの人にとってこれからも紙媒体は希望になり続けるのだろう。
初めは彼を「悼む」ことをテーマの一つにしていた。
悼むことが悲しむことと同義だとするとそれは目指す方向性と違うと感じた。
だから偲ぶことにした。
今回の雑誌の特集は明るく偲ぶのに使って欲しい。
ビルなんてない里山を走る彼がはっきりと思い出せるから。
宣伝するわけではないけど今回のものがどこに載っているかは記しておく。
Bicycle Club 2024年5月号
編集コウノの「自転車と洋品の世界」