【心に元気を届ける!】元気を歌うKOZYの人生と夢 Draw My Life
【心に元気を届ける!】元気を歌うKOZYの人生と夢 Draw My Life
1971年、俺は大阪平野というところで生まれた。
家族は、父 母 兄 俺の4人家族。
父は不動産業の会社を経営し、母は喫茶店を経営していた。
両親ともに働いていたため、俺はいつも鍵っ子やった。
小さいころから目立つことが好きで、両親が歌好きってこともあって、俺は家でよく自分で歌って、それをテープに録音などして遊んでいた。
父が仕事の関係で色々動いていたため、俺は小学校を3回ほど転校した。
その後父は仕事の右腕として信頼していた親友に騙され、多額の借金を抱えることになり会社は倒産して、家は破産した。
生活は一気に変わっていった。
転校先では、もともと目立ちたがりやの俺は積極的に話しかけたり、周囲の皆を笑わせたりしてちょっとした人気者になっていた。
まあ、もちろん。転校も3回すると、慣れてくるからね。
小学校5年の時、それが気に入らんかったガキ大将的な存在が周囲を仲間にひきこみ
俺をいじめ始めた。
いじめは小学校5年6年と2年間も続いた。
俺は2年間何をするにも一人で、相談する相手もおらず、親に助けてもらうのも恥ずかしかったんで、じっと、じーっと我慢の日々を続けた。
その時に、唯一俺の心の支えになったものがアニメソング。
当時のアニメソングは、ロボットものなど、がんばれ 正義は勝つ 立ち上がれ みたいな歌が多く、とても、とても勇気づけられた。
こんなに勇気がでてくるんやと俺は小学生ながらも 音楽の凄さがわかった。
そして12歳の時 歌手になろうと決断した。
中2になって歌のオーディションを受け、芸能養成事務所に通うことになった。
そこで人生初めてのボイストレーニングに出会った。
歌の難しさや 楽しさをもっとわかるようになった。
中学の頃、勉強しなかった俺は進路相談の際、高校に行くつもりですといったら、今の時代では考えられないが、先生は、「本気か!お前なんか逆立ちしてもいけんわ」と言い、と人の先生と職員室で笑われた。
さすがにキレた俺は、そのまま職員室を飛び出して、めちゃくちゃくやしかったんでその日から猛勉強を始めた。
家では3度の飯以外、ずーっと勉強していた。
絶対見返したる!という思いしかなかった。
努力の甲斐があって、希望する高校へ入学ができた。
不思議なもんで、あれだけ見返したると思っていた心が、入学出来たら、もうどうでもよくなってた。
っていうか、後から考えたら、それがあったから入学できたという感謝にも変わっていた。
そして、高校2年の時、世間ではバンドブームが到来した。
俺も衝撃をうけて、初めてバンドを組んだ。
高校時代のバンドでは、いろんなコンテストやイベントに参加してたくさんの賞をもらうようになった。
俺は「俺いけるかも 絶対プロになれる」と当時の安易な自信がわいた。
高校を卒業し、いろんなバイトを繰り返しながら、絶対的な自信があったライブを重ねるたびに、世間には俺よりもうまい奴らがいっぱいおんのやな。と天狗になっていた俺の鼻は ポキポキ折られることになった。
それでもどうしてもプロになりたかった俺は二十歳のころ求人誌に載っていた、芸能界パイプありというバイト募集の記事に誘われ大阪ミナミで水商売をはじめた。
そこはある大きな暴力団関係者が経営するお店とは知らず、怖いながらも毎日毎日接客していると、どんどんトーク力が身についた。
俺才能あるかも、2度目の安易な自信が生まれ、なんと21歳のとき自分の店を大阪ミナミのど真ん中にオープンした。
当然水商売の厳しさの洗礼を受け1年で閉店。
その頃から音楽と少しずつ離れるようになった。
そんな悪いサイクルの中、ええこともあった。
ひとりの女性と出会い、俺は恋に落ちることになる。
でも、そんな幸せもつかの間 まさかの事態が起こる。
彼女が交通事故で亡くなった。
俺はどん底の心の中、その2か月後さらに最悪な日を迎えることとなる。
阪神淡路大震災。
当時は兵庫県のボロアパートに住んでいた。
その朝、立って逃げることさえ出来ないほどの揺れ、部屋の壁が崩れはじめ、周囲はぐちゃぐちゃで、「死ぬ」と本当に思った。
一瞬揺れがおさまった瞬間にアパートから飛び出すと俺の背くらいの位置に一軒家の屋根があった。
電柱は斜めでいろんなものが壊れていた。
本当に恐怖と衝撃が、体の中を脳みそを走った。
職場の人も、中学の先輩も数人亡くなり、俺は人生で命についてものすごく考えさせられた。
俺や家族は運よく助かったが、仕事もなくなり生活のための借金も増えていく。
俺は思った。
この命、生かされたんやと思ったら、好きなことをやらんとあかんと。
日雇いのバイトでお金をため上京することを決意した。
もちろん 歌手になるため、メジャーデビューするためや。
24歳で上京 収録で毎日10時間 安い時給のバイトをしながら、毎日毎日バイト以外の時間は全て音楽に費やした。
多数のオーディションやデモテープをプロダクションに配った。
ライブの動員はある程度あったけど、それどまりやった。
そんな生活を2年ほど続けていた俺も26歳になった。
正直疲れて、心も折れまくっていた。
地元の同級生だった奴らは、ちゃんと就職して、結婚するものも増えている。
自分の夢と現実の違いを数年間感じ続けた俺は、よし、今年いっぱいやって、なんにもならなかったら地元に帰ろう、そう心に決めた。
その矢先 一気に3,4社のプロダクションやレコード会社から連絡が入ってきた。
まさに奇跡だった。
その中でも、一番信頼できそうなプロダクションに所属できることになった。
そこからデビューまではジェットコースターのように早かった。
デビューが決まり、プロダクション、レコード会社 取り巻く多くの関係者のみなが売れると確信していた
当時大人気だったシャ乱Qのオープニングアクトで大阪城ホールライブ。
そして、オールナイトニッポンのパーソナリティになりさらには有名音楽雑誌でも連続して特集され、あのNHKの音楽番組 ポップジャムにも出演した。
しかし、いろんな理由、不運な出来事、売り込みの失敗。
多々原因があって売れなかった。
事務所の社長にも謝られたが、結局は自分自身の力の足りなさだと自覚した。
それから事務所を辞めて、自主で音楽活動はつづけたが、29歳にもなり、歳も歳だし業界に疲れたのもあって音楽をやめることにした。
その後、ある会社に就職して2年ほど勤めた。
そんなある日、兄との電話での何気ない会話のなかで、音楽から随分離れていた俺に、兄はたぶんわかってたんやろな、俺がずっと音楽したいということが。
「歌教えたらどうや?」そんなことを言ってきた。
俺はその瞬間、音楽に戻れる、そんな想いだった。
ずっとそんなきっかけを待っていたのかもしれない。
もちろんすぐ行動した。
最初は受講生3人やったけど。
先生めちゃわかりやすい!短期間で、こんな上手くなるなんて!など、うれしい言葉をいっぱい頂いて、3人が10人、30人、50人と口コミでどんどん増えていき、その後100人ほどの生徒を受け持つようになった。
とても一人ではできなくなり、知り合いに手伝ってもらいながら、サイバーモンキーボイストレーニングクラブという音楽スクールを設立し、ありがたいことに15年も続けることが出来ている。
そんな中で、トレーナーとして働いてくれていた女性と運命の出会いがあった。
現在の妻だ。
音楽スクールも順調、子宝にも恵まれ、家族4人幸せな時間をすごしていた一方で、何かやり残したことがあるような、心にぽっかり穴があいたような感覚を同時に感じていた。
そんなある日、元メジャーリーガーの新庄さんがyoutubeを見て、俺のレッスンを受けたいとバリからやって来てくれた。
一通りレッスンした後に新庄さんから思いもよらぬ言葉をいわれた。
「こうちゃん、もう一度、歌うたえ デビューを目指せ」
当時45歳、だった俺は、「45歳ですよ」というと、「歳なんか関係ない」と力強い口調で語ってくれた。
新庄さんからの言葉でぽっかり空いていた穴が何なのか俺ははっきり分かった。
そうや歌や 俺は歌を歌いたいんや。
俺の歌で元気になれる人をもっともっと増やしたいんや。
以前デビューしていた時は、自分が売れるため 有名になるためだけを考えていて、心の矢印が自分にしか向いていなかった。
でも今は違う。
あの小学生の時、歌手になろうと思った気持ち。
歌に勇気づけらえた気持ち。
誰かが俺の歌を聞き、そのきっかけで幸せになってくれたら。
今は心の矢印が自分だけではなく、違う方向にあると気付いた。
音楽は人を幸せにできる。
俺にしかできないことをやろう、そんな気持ちで、今歌を再開した。
ガキの頃、生きる勇気をもらった歌。
その歌で今度は、俺が誰かに勇気をあげる番や。
なかなか思い通りにいかないなと思ってる人。
壁にぶつかってる人。
はい上がろうともがいている人。
そんな人たちが何かに挑戦しようと思えるきっかけを俺の歌から得てくれたなら、これ以上幸せなことはない。
いつか、KOZYの歌で勇気をもらえたで。というあなたと一緒に笑顔で歌が歌える日を楽しみにしています。
最後までご覧いただきまして本当にありがとうございました。
元気を歌うボーカリストKOZYでした!
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