1月 23 | 一年で聖書を: 出エジプト記7-8 ; マタイ15:1-20

出エジプト記7:杖
      8:心を硬くし
マタイ15:1-20:言い伝え、戒め

●神がモーセを通してイスラエルに与えた「律法」(トーラー)は、アブラハムに結ばれた契約(約束)から430年後に与えられました。神の民であるイスラエルは神の教えに従うことで、神の民としてのきよさを保つように定められました。しかしその後の歴史において、イスラエルは(北王国と南王国とに分裂した後も)神の教えに聞き従わなかったために、亡国の憂き目を経験し、北イスラエル王国はアッシリアによって滅ぼされ、南ユダ王国はバビロンによって捕囚の民とされたのです。この痛みを通して、捕囚を経験した南王国のユダの民は、70年後にバビロンの後に台頭したペルシアの王クロスによって捕囚から解放され、エルサレムへと帰還します。捕囚の目的は、神がご自分の民に神のことばの真実とすばらしさを理解させるためであったのです。捕囚とされた民はバビロンにおいて、神に悔い改め、神の律法(トーラー)の真実とそのすばらしさに目が開かれ、新しい民とされたのでした。これがユダヤ教の始まりでした。その指導者として立てられたのは、祭司エズラでした。

●詩篇119篇を読むと、失敗の歴史を通して、いかに神の律法に目が開かれたかを知ることができます。ぜひこの詩篇を味わってください。他にも「トーラー」のすばらしさを歌った詩篇があります。詩篇19篇がその一つです。

●最後の「わが贖い主よ」という告白の中に、【主】こそ神の民を捕囚から解放して、再び、神の民としての身分と繁栄を回復してくださったことが告白されています。ところが、新しくされた神の民はその後の長い歴史の中で、つまり、神の律法の大切さを、世代を越えて教えていく過程において、少しずつ変質させていったのです。どのように変質させていったかと言えば、すべての行動において神に喜ばれたいという思いをもって律法を解釈し、説明し、補足していきました。その範囲は次第に広げられ、生活の細部にまで至るようになり、ついには全員がそれを守るように強制する規定となって行きました。そしてその規定が、本来の律法(成文律法)以上に権威を持つようになってしまったのです。これが「長老たちの言い伝え」、あるいは、「先祖たちの言い伝え」(成文律法に対する「口伝律法」、「伝承」)と言われるようになったのです。ヘブル語ではこれを「ハラカー」と言います。「ハラカー」(הַלַךָ)とは、「歩く、歩む」を意味する「ハーラフ」(הַלַךָ)が語源となっていますが、それを文書化したものが「ミシュナ」、あるいは「タルムード」と呼ばれます。その中の一つに、今回問題とされている「食前に手を洗う儀式」があったのです。

http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?神のことばの権威を無にした「言い伝え」


3. 「自分たちの言い伝えのために神のことばを無にしてしまった」

●イェシュアはこれらの「言い伝え」の権威を全く認めず、それを「自分たち言い伝え」とし、その「言い伝え」によって「神の戒めを破っている」(第三版では「犯す」と訳されている)と言い返しています。そしてイェシュアは、パリサイ人たちや律法学者たちに対して、「あなたがたは、自分たちの言い伝えのために神のことばを無にしてしまった」と断罪しています。「無にする」という「アキュロオー」(ἀκυρόω)は、神のことばの権威を「破棄する、無効にする」という意味です。どういう意味で、神のことばを無にしてしまったと言っているのでしょうか。イェシュアの反論を見てみましょう

(1) 「言い伝え」のために神のことばを無にしている

【新改訳2017】マタイの福音書15章4~6節
4 神は『父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言われました。
5 それなのに、あなたがたは言っています。『だれでも父または母に向かって、私からあなたに差し上げ るはずの物は神へのささげ物になります、と言う人は、
6 その物をもって父を敬ってはならない』と。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために神のことばを無にしてしまいました。

●この部分を呼んでもいまいちピンときません。微妙な点において神のことばが無効になってしまっているのです。イェシュアはパリサイ人たちの「言い伝え」である「食前のきよめの儀式」について何ら一言も答えていません。むしろ、4節以降で、イェシュアは神から啓示された神のことばそのものを提示しながら、「神のことば」よりも「言い伝え」の方を権威あるものとしているということを述べようとしているのです。つまり、こういうことです。「神は『父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言われた」ということ。これは出エジプト記20章12節と21章17節に記されている神のことばです。ところが、あなたがたの「言い伝え」によれば、「『だれでも父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は神へのささげ物になります、と言う人は、その物をもって父を敬ってはならない』と。」と言っています。これはどういうことなのでしょうか。

●「神にささげられたもの」、神のために「聖別されたもの」のことを「コルバン」(קָרְבָּן)と言いますが、「あなたがたがひとたびあるものを神にささげると誓ったならば、その誓いは破ってはならない。たとえ、それが両親の扶養に必要なものであったとしても、『言い伝え』に基づき、両親のためにそれを使うことはできない。」というものです。例えば、ある人の父か母が貧しく、年をとってお金に困り、息子のところに助けを求めて来たときに、その人が両親への援助を断わる道があったのです。それはいわば公的に、お金や財産をすべて神と神殿にささげることでした。するとこれがコルバン、すなわち、神にささげられたもの、聖別されたものとなり、両親には、「大変お気の毒ですが、何もあげられません。私の持ち物は全部、神のものとなっていますから」と言って、扶養の義務を回避することができたのです。すなわち、「言い伝え」を盾にして、十戒を無視することができたのです。このことを、イェシュアは神のことばの権威を無にしてしまっていると言っているのです。イェシュアはこの点を指摘されたのです。

http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?神のことばの権威を無にした「言い伝え」


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