『パイナップル ツアーズ』と私

「ネーネー、幾つね?何年生?」
頭にタオルを巻き、ニッカーボッカ姿のヒゲ面のおじさんは、私にこう聞いた。
「えっと…昭和45年生(生まれ)です。」
「じゃあ、自分たちブーリャさいが(同級生だね)!」
よく見ると、顔のシワはペンで描かれたものだった。
極太に塗った眉毛の下に、いたずらそうな瞳が輝いていた。
それが、社会人一年生の23歳の頃だったか、コザの笑築過激団で人気キャラクター「川満シェンシェー」を演じていた川満聡と私の初対面だった。

大学時代に住んだ東京で、できればそのまま就職したいとは思ったのだけど、3社ほど受けた都内の出版社と沖縄の琉球新報社には落ち、町田のレコード店でアルバイトをしながら卒業後半年ほど留まっていた。大学3年生の頃まではフリッパーズ・ギターに夢中でライブや音楽三昧の毎日だったのだが、彼らも解散し、なんとなく寄る辺なさを感じていたというのが正直なところだ。

あるとき、琉球新報の子会社である週刊レキオ社が編集部員を募集していることを知る。私は高校生の頃に、家で購読していた琉球新報に毎週ついてくるタブロイド版の「週刊レキオ」が大好きだった。赤瀬川原平さんが提唱した「トマソン」をはじめ、沖縄じゅうの面白い情報が詰まった若者向けの副読紙だった。いまでいうと「DEE沖縄」的な要素が大いにあった。その中に映画情報のページがあり、中でも琉球大学の映画研究会のメンバーが自主制作映画『はれ日和』を撮った話題などが、離島で雑誌Olive、POPEYE、宝島などを愛読していた私には気になった。沖縄でジム・ジャームッシュに影響を受けた青年たちが映画を撮っている。かっこいいなあ!などと。琉球新報社を受けたのも、もともとは週刊レキオをつくる部署に行きたかったからだ。

上京してしばらくはレキオを読むこともあまりなくなってしまったが、そうこうしているうちに、『おきなわキーワードコラムブック』という本が沖縄で大ブレイクしていることを知る。そして映画『パイナップル・ツアーズ』が話題となり、どうやらその映画にはあのレキオで存在を知ったお兄さん達が関わっているようなことにも気づいた。

映画は、たまたま帰省中に宮古島の平良市民会館で観た。めちゃめちゃに面白かった、というか、なんと表現してよいか分からないパワーが溢れていた。特に「爆弾小僧」のパートは登場人物のアキラと夏子のコンビがよかった。高校時代に、この島で話の合う人なんて自分と彼氏くらいだと思っていた私にとって、自分を重ね合わせてしまうほどに気に入った。映画の中で、東京からやってきた「富士菊ちょうちんグループ」というふざけた名前の会社の敏腕社員(演じていたのは洞口依子さん)が、彼らを取り込もうとしたはずが散々な目に遭うのにも笑ったし、照屋林助さん達大御所の佇まいは最高だし、ラストシーンの痛快さときたら!

…沖縄 。退屈だと思って離れた沖縄が、いまは、なんだかキラキラと輝いて、ものすごく面白そうじゃないか!東京よりも!

そういえばミーハーな私は、大学4年生の頃にボーダーインク社を訪ね、憧れの編集者・新城和博さんにもお会いした。新城さんは『おきなわキーワードコラムブック』を書いた「まぶい組」のまとめ役。あわよくばボーダーインク社で募集があれば…という、怖いもの知らずのアホな大学生に、新城さんは淡々と優しく話してくれた。ときは沖縄が本土復帰20年を迎え、沖縄ブームが巻き起こった頃で、新城さんはその対応にお疲れのご様子だった。東京のバブル景気は陰りをみせており、もちろん私のボーダーインク社への夢は、泡のように消えることになる―。

話は戻って、週刊レキオ社である。入社試験はたぶん、会社オリジナルだったと思う。(ディアマンテスとして人気上昇中だった)「アルベルト城間について説明しなさい」という問題では、「高校生の頃にホームステイに行ったときに歌を教えてもらいました」などとしっちゃかめっちゃかな答えを書きながらも、なぜか私はこの会社の人たちは私を気に入ってくれるかもしれないという手応えがあった。なにしろ高校生の頃に、あれだけ隅から隅まで読んでいたのだから。

しかし、問題ができた。二次試験の日は、ちょうど母と一緒にハワイの伯母を訪ねる旅行期間にあたってしまったのだ。そのことをレキオの方に伝えると、えっ…と面食らった顔をされた。どこの世界に、二次試験の日は旅行するんで出られませんという受験者がいるだろう。

もちろん週刊レキオ社の二次試験は受けられず、母と旅を終え、いったん宮古島に戻った。そこで、たまたま宮古毎日新聞社が新人記者を募集していることを知り連絡してみたら簡単に入社が決まった。Uターンする若者がまだ少なかったからだと思う。

東京にしがみつくつもりだった気持ちはいったん萎み、関心のあった沖縄本島を飛び越して、私は島に戻った。転がるような急展開に、東京に居た彼は困惑しただろう。でも、やりたいことをやってみるのもいいかもね、と私の選択を受け入れてくれた。

宮古に戻ったはいいものの、マスコミについて何か学んできたわけでもない素人の新人は失敗もたくさんした。FAXの送り方も知らず、戻ってくる紙を延々とやり直し続けて、相手の会社から「もう送るのやめてください」と電話がかかってきたこともあった。そんな私に、周りの大人たちは厳しくも優しかった。

少しずつ慣れてきた頃、川満シェンシェーが来島して宮古のスーパーでミニお笑いライブをするというので、カメラとメモ帳を持って取材に出かけた。大うけの会場で、イベント終了後にシェンシェイに声をかけた。それが、本文冒頭の場面である。

それから私は川満シェンシェーと次第に打ち解けて、本名の「さとし(聡)」と呼ぶようになる。呼びすてにするのは地元の同級生くらいなので、なんとなく嬉しかった。ときどき仕事で宮古にやってくる聡は、いつもひょっこり現れた。あるとき、「ハヤシたちと宮古に来ているよ」と連絡が入った。ハヤシさんって…あの『パイナップル・ツアーズ』の「爆弾小僧」パートの監督、當間早志さん!?

どういう流れだったか、私の実家に當間さん、武富良實さん、井出裕一さん達を含む数名で遊びに来てくれて、うちの父や母と酒を吞み、雑魚寝して翌朝ごはんを食べて帰って行った。聡のお父さんとうちの父が宮古の高校で同級生だったことも分かり、あの映画の中のアルベルト上原(川満聡)が、監督たちを連れてきてくれたなんて。それはもう夢のような時間だった。

宮古で働いて丸一年が過ぎたころ、週刊レキオ社から、空きがあるので契約社員という形で働きませんかと声をかけてもらった。宮古毎日の社長さんには「せっかく育てていたのに」と叱られたけれど、頭を下げて退社し、沖縄本島に移った。そこで過ごした約4年の間、週刊レキオに連載を持っていた映画サークル突貫小僧の方々とも顔を合わせることになる。聡は當間さん達と設立したAGU!エンターテイメントの活動のほか、各地の公民館などを回る旅一座「爆点(ばくてん)」に関わったりといろいろ頑張っていた。4月9日を「フォークの日」としてライブイベントを企画した聡をイラストなどで手伝うこともあった。同い歳のエンターテイナーが奮闘するその様子を近くで見られたことはよい刺激になった。レキオの人気コーナー「おばあが笑ってV」で沖縄各地の戦後を生き抜いた女性たちに話を聞いたり、デビュー間もないガレッジセールに話を聞いたこともあったし、二十代半ばをあんなに楽しく過ごせたのは幸運だったとしか言いようがない。

その後、私はまた二十代の終わりで島に戻るのだが、新城和博さんによって宮古出身の同級生・宮国優子に白羽の矢が立ち、彼女をリーダーに『おきなわキーワードコラムブック』の宮古版とでもいうべき『読めば宮古!』が完成した。少しずついろんな運命の糸がからまり、繋がって、宮古の若者たちのある時期のポップカルチャーも本として残った。(宮国優子さんは2020年11月に急逝したため、『読めば宮古!』『書けば宮古!』の続編が保留になってしまったことは残念だし、彼女の存在の大きさを私はあらためて噛みしめながら冥福を祈るしかない)

それから何年も時間は流れ、沖縄の本土復帰50年の今年、映画『パイナップル ツアーズ』のデジタルリマスター版が全国公開されることになった。宮古ではまだ上映されていないので観ることができていないのだけれど、またひょんなことから、洞口依子さんがTwitterのスペースに参加させてくださることになり、あのとき監督をされた當間さんと真喜屋力さん、美術スタッフとして関わった武富良實さん達に、しどろもどろながらも、ファンの一人として映画への想いを伝えることができた。

洞口さんが「あなたの人生を変えちゃったのね!」と仰ったとおり、きっと『パイナップル ツアーズ』は、私のような迷える沖縄の当時の若者に、何かとても大きなインパクトとエネルギーを与えてくれた映画だと思っている。だから感謝してもしきれないし、とりわけ、あの映画で陽気なパーラーの店主アルベルト上原を演じた川満聡には、ずっとずーっと、たんでぃがーたんでぃ(ほんとうにありがとう)! と言い続けなければならないと思っている。


追記:Twitterでも書いたのですが、『パイナップル・ツアーズ』が公開された1992年の雑誌「宝島」2月24日号は、監督3人とTHE BOOMの栃木孝夫さんが対談していて、なぜか同じ号のスナップページに私もたまたま載っているという、極私的な家宝のような一冊になっています。



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