集大成と新展開がもたらすもの/木村夏樹覚書.2022.07
2022年7月は転換期かもしれない。デレマス、そしてアイマスシリーズそのものが、ある種の集大成を迎えた、それも異なる3つの形でだ。その集大成において木村夏樹はどう在ったか、そして次なる展開が木村夏樹に何をもたらすのか考えておきたい。
モバマスの一つの集大成として『LIVEツアーカーニバル』の千秋楽
2022年6月30日から7月11日まで、モバマスにて『LIVEツアーカーニバル』こと、公演が開催された。公演はアイドルが演技して普段とは異なる世界観を見せる。ストーリー性も高く各アイドルの掘り下げという意味でも人気の高いイベントだ。
そのイベント専用の消費アイテムの注意書きに、今後の開催予定が未定であり、アイテムの全消費を推奨する付記があったことから『LIVEツアーカーニバル』形式のイベントの終了が予測されている。
さらには今回のイベント「輝劇公演~星降る夜と舞台の光~」では演劇そのものがテーマとなり、過去の公演を彷彿させるユニットが多数登場するなど、まさに千秋楽とも言うべき内容だった。
木村夏樹もストーリーに関わらない、過去の公演とも無関係ながらも、登場自体はしてくれたのは嬉しい。
木村夏樹にとって公演とは何だったのか
木村夏樹にとって公演といえば「幻想公演 黒薔薇姫のヴォヤージュ」にメイン級で登場したこともあったが、現在の公演とは異なる演出であり初期の手探り状態であったことから、改めての本格的な登場も期待していた。
しかし公演に登場することすら稀で、ようやくモバマスのサービス縮小発表後に、既存イラストカードの流用という形で「追想公演~Missing Link Memories~」にストーリーにじっくり関わるメイン級で登場した。
追想公演では普段はほとんど言及されない、木村夏樹の本心を隠したカッコつけたがりの性格が取り上げられ、多田李衣菜との関係性を踏まえたストーリーであり、まさに木村夏樹のパーソナリティを踏まえた演出だった。
かといって全てに納得がいったわけではない、公演内容のネタバレになってしまうのだが、公演の設定では木村夏樹が多田李衣菜との関係を大事にするあまりに、多田李衣菜に向き合わずに逃げていた。
しかし公演から離れた普段の世界、デレステのコミュや、ひいてはデレマスを取り巻く二次的な環境、デレアニの世界線において、向かい合わずに逃げているのは木村夏樹ではなく、多田李衣菜の方だ。
木村夏樹は何かにつけて多田李衣菜にロック・ザ・ビートに言及し、その意義を見出すことは多い。だが多田李衣菜がそうした振る舞いをすることは稀で、デレステの世界線ですらデレアニの世界線を踏まえているように見える。多田李衣菜と木村夏樹との関係性には不均衡がある。
追想公演は木村夏樹と多田李衣菜の関係性を踏まえた演出としては十分とは言い難い。もう一度、木村夏樹に公演でメイン級の登場で、今度こそ普段の世界観やメタ的な環境も踏まえた木村夏樹の掘り下げを期待したかったが、それが叶わずに『LIVEツアーカーニバル』イベントの終了となった。
木村夏樹にとって公演は、もう一歩踏み込んでほしかった心残りのイベントではなかったか。
アイマスシリーズの集大成でもあった『ポップリンクス』がサービス終了
2022年7月21日に、事前に予定されていた通りアイマスシリーズ5ブランド合同ゲーム『アイドルマスターポップリンクス』がサービス終了となった。
サ終が発表されてから以来、どうしても自分の中でポプマスへのモチベーションは低くなり、終了間際になってようやくラストイベントで木村夏樹に関わる演出を回収した。
そうした低いモチベーションで義務的に慌ただしくプレイしたコストとリターンの不釣り合いもあるのだろうが、いざポプマスがサ終する時の自分の気持は「こんなものか」と不思議な諦めの気持ちだった。
ポプマスという一つの集大成で、木村夏樹がこれでいいのか
デレマスのアイドルたちは何かと、ボイスや人気の有無に活躍の機会が左右されがちなことを思うと、ポプマスは初期からブランドの垣根を超えたアイドルの関係性を重視して、ボイスや人気にこだわらず意外なアイドルを実装してきたことがありがたかった。
そうした中でも木村夏樹は、ロックという関係性から多田李衣菜と、ミリマスのジュリアと共にポプマスに実装された。それも「ハーモニクス」イベント後ということもあって、より一層関係性を大事にされていると思ったものだ。
そうしたポプマスにはありがたい思いがある。一方で、ポプマスがサ終の前の集大成としてのラストイベントで、各アイドルごとの演出はどうであったか、木村夏樹にもたらしたものは何だったかと考えると、煮え切らない思いがある。
木村夏樹のラストイベント演出は、木村夏樹の後ろを振り返らない未来志向や、これまでの歌唱曲を彷彿させるワードもある。さらには、これまでのアイドルとしての活動、その機会を与えたプロデューサーへの感謝も述べている。確かに木村夏樹の性格や足跡を踏まえたものだった。
だがしかし、しかしである。これが木村夏樹の一つの集大成として、これでいいのだろうか。木村夏樹のユニットとしての活動はどうかロック・ザ・ビートはどうか、木村夏樹のこれまでの掘り下げ、カッコつけたがる性格やこれまでの悔しい記憶を踏まえてどうだろうか。
他のアイドルのラストイベントの演出と比べるとどうだろうか。
例えば、松永涼はアイドルになる前のバンド活動までも踏まえた台詞があり、プロデューサーに拾ってもらった感謝を口にしている。さらに言えば、ここ最近でもモバマスのシンヒスで松永涼の丁寧な過去の掘り下げがなされており、そのイメージに一貫性がある。
例えば、ニューウェーブのメンバー、村松さくら、大石泉、土屋亜子は、それぞれお互いに名前をあげてモバマス以来の積み重ね、ユニットの関係性の深さを見せて、象徴的な台詞や意気込みも盛り込まれている。
集大成のラストイベントでアイドルそれぞれが、これまでの過去の人物像の掘り下げを、ユニットのつながりを、積み重ねてきたものを昇華させている。ひるがえって木村夏樹はどうだろうか、これが木村夏樹の集大成でいいのだろうか。
そもそもポプマスは核心を突くような演出、これまでにない新しい一面の掘り下げには乏しい、言わばアイドル個人の核心に迫らずに、アイドルがどのように大衆的に認識されているか、パブリックイメージをなぞるような演出がほとんどだ。
そのパブリックイメージが問題ではないか、木村夏樹の大衆的な認識が、これでいいのか、木村夏樹の集大成のパブリックイメージに、これまでのユニット活動や、過去の掘り下げやはいらないのか、ここ一年だけでも「ハーモニクス」や「EVERLASTING」をはじめ、様々な活動があったのに認識すらされていないのか、というある種の落胆がある。
ポプマスは「ハーモニクス」イベントに合わせた実装であったのだから、木村夏樹と多田李衣菜がイベコミュでお互いに、リスペクトして高め合う関係性に向き合ったのはどうしたのか。
それでもいちおうは、深く読めば、木村夏樹が「セッション」という、木村夏樹と多田李衣菜、ロック・ザ・ビートを語る上で欠かせないアイドルセッションを彷彿させるワードをあげてはいる。
しかし、そこまで考えるならば多田李衣菜は、ロック・ザ・ビートを彷彿させるワードを言わないことが気になる。それでいて「解散」というフォー・ピース、アスタリスクwithなつなな、ひいてはにわかロックを彷彿させるワードをあげている。
この不均衡は何だ、木村夏樹にとって、多田李衣菜にとって、ロック・ザ・ビートとは何だったのか。
いやしかし、サービス終了した今や何を言っても仕方ない。これがサービス終了するということか。
サービス終了前の気持ちも複雑だった。もっとプレイすればよかった、せめてジャケットだけでも作ればよかった、ああすればよかったこうすればよかったという後悔、しかしそもそも楽しさよりも義務感や徒労感の方が強かったゲーム性に対してどうすればよかったのかという迷い。
自分にとって初めて、強く入れ込んだキャラクターがいるゲームが終了する。それが、こういうものか。いつか来るその時の為に、受け入れるための予行練習にはなった。
こんなものかと、自分でも予想よりも抵抗なく受け入れることが出来た。いつか来るその時、その前に、自分の中で何かが切れてしまわないかと、また複雑な思いが湧いてきた。
アイマスシリーズの集大成として17周年、そして新規展開
2022年7月26日に、アイマスシリーズは17周年を迎えた。それを記念したネット配信で様々な企画が発表された。5ブランド越境のライブ開催や、楽曲のサブスク解禁。その極みとして新展開「“MR”-MORE RE@LITY-プロジェクト」が宣言された。
これまで以上のIPの活用としてアイマスの世界観やアイドル一人ひとりを取り上げる強化を謳った。そのすぐ後に、デレマスと福岡ソフトバンクホークスとのコラボで、ボイスや人気に関わらず福岡出身アイドルの新規描き下ろしグッズ展開するという、有限実行ぶりも見せてくれた。
そしてさらに、モーションキャプチャー技術によって、これまでの演じる声優と役柄のアイドルを超えた、バーチャルな存在としてのアイドルの表現の展望も見せてくれた。
木村夏樹に何をもたらすのか
アイマスのブランド越境となれば、木村夏樹にとってはミリマスとのコラボ「ハーモニクス」が即座に思い浮かぶ。
モーションキャプチャーと言えば、既にIMAJOが「ハーモニクス」のMVでギター演奏のモーションを担当して、「なつきちの手」を自称するほどでもあることも思い浮かぶ。
アイマスシリーズの新展開は、木村夏樹の新展開にも大きく関わってきそうだ。
しかし、「ハーモニクス」は機会は何度もあったのにデレマスのライブでは披露してない中で合同ライブで披露するのは意義が薄れるんじゃないか、いよいよIMAJOが木村夏樹の存在として不可分のものになるのなら、そもそもIMAJOが木村夏樹のギター演奏担当して相応しいのか考える必要があるんじゃないか。
どうしても期待よりも懸念が湧いてくる。
今月に入って、ある種の集大成として見せてくれたもの2つが、真に迫るものではない心残りがあったからだろか。
さらに言えば今月に限らず、これまでの木村夏樹が集大成として見せてきたものが、デレマス10周年PVでも活動がろくに取り上げられなかったり、ライブイベントでも振り返るべき時に過去を振り返らない。これまでの集大成に悪い意味での積み重ねがあるから、期待よりも懸念が湧いてくる。
そして究極的には、そもそも木村夏樹の未来志向の性格が、いわば過去の積み重ねを無下にしてりのではないかという疑念が湧いてくる。
ともかく今の自分には、せっかくのアイマスの新展開と言っても、どうしても期待ができないのだ。
編集後記
ここまでダラダラと書いてきてなんだが、自分は木村夏樹にうるせえよと言ってほしいのかもしれない、これまでの積み重ねがどうとか、明日がなんとか未来はこうとか、うるせえよと言ってほしいのかもしれない。
木村夏樹は、これまで活躍の機会に恵まれてこそいたものの、一貫性をもって積み重ねてきたわけではない。過去の活動がバラバラに木に竹を接ぐように矛盾の上に積み重ねられてきた。
過去が活かされることなく、それどころか積み重ねを無下にするようなやらかしを、何とかリカバリーしようと竹に木を接ぐように、マイナスをゼロに戻すような活動を続けてきた結果、過去の活動に縛られて身動き取れずに雁字搦めになっている。
結局の所、自分は木村夏樹にこれまでを大事にしてほしいが、これまでに縛られてもほしくない。積み重ねではなく積み減らしを望んでいるのかもしれない。
編集後記の追記
さて、ここまで書いてなお足りないなと思って書き足す。
自分はロック・ザ・ビートについてクリティカルに捉えきれていないのではないかと課題が見えてきたからだ。
デレメールの質問に、多田李衣菜が応えている。多田李衣菜がこれほど具体的に、自分の思うロックについて言及したのは初めてではないか。
木村夏樹と多田李衣菜はロックという価値観で通じる関係性だ。多田李衣菜が思うロックについて応えるなら、それは木村夏樹との関係性、ひいては木村夏樹の価値観の掘り下げにつながる。
しかし、多田李衣菜の思うロックと言えば、デレアニでの多田李衣菜のセリフ「アスタリスクが私にとってのロック」「ぶつかり合うことがロック」という考えから、「アスタリスクのように、ぶつかり合うことがロック」という一つの答えがあった。
その答えは、木村夏樹と多田李衣菜がロック・ザ・ビートとして、お互いにリスペクトして高め合う関係性とは矛盾することから、デレアニで事実上ロック・ザ・ビートが否定された答えでもあった。
それを踏まえて考えると、今回のデレメールの質問で答えた、多田李衣菜が思うロックは、デレアニの世界線での「アスタリスクのように、ぶつかり合うことがロック」という価値観とは矛盾することなく包括する概念だと分かるだろう。
それはロック・ザ・ビートの価値観を否定する、狭量な価値観としてのアスタリスクをまだ断ち切れていないことを意味する。
たしかにロック・ザ・ビートは、JttFイベ以来はぶつかり合うこと価値観も取り込み成長してきた。
だが、それはロック・ザ・ビートの価値観を否定する、アスタリスクの狭量な価値観がなかったことにされたわけじゃない。
依然としてアスタリスクはロック・ザ・ビートを否定する価値観として、すぐそこにあり続けている。
そうしたアスタリスクを多田李衣菜は断ち切れずに引きずっている答えではないか。
ロック・ザ・ビートの価値観はなにか、普段の多田李衣菜はロック・ザ・ビートや、木村夏樹についてさえ言及することすら少ない。ロック・ザ・ビートのイベントのときにでもならないと多田李衣菜は言及しない。
それでいながら多田李衣菜と木村夏樹は、何かと対になるようにグッズが展開されたり、ロック・ザ・ビートのグッズ展開もいくつも発売された。
これではまるでロック・ザ・ビートが、商業展開の時だけ取り上げられる金を巻き上げるだけの都合のいい存在のようではないか。
これがロック・ザ・ビートの意義なのだろうか。
そうした自分の捉え方は流石に違うと思いたい、ロック・ザ・ビートをクリティカルに捉え直すことが自分にとっての課題になりそうだ。