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宮沢賢治 作 「そもそも拙者ほんものの清教徒ならば」 キクイモがいっぱいとれたけど、米も食べたい賢治

宮沢賢治が、羅須地人協会で自炊生活をしていたころの詩です。
キクイモがたくさんとれて、自分が、清教徒やサムライだったらこれだけを食べて暮らすけれども、やっぱり米も食べたい、という、人間的、日本人的な本音が、やや自虐的につづられています。


キクイモは、痩せた土地でも良くできますが、現代では健康食品になるほど重量あたりカロリーが少なく、玄米の10分の1で、これだけを主食にすることは困難です。

キクイモといえば、農学校教師時代には、キクイモの混ぜご飯の素(富錦)の製造と花巻温泉での販売を、生徒に提案したこともありました。

「近時温泉地方の発達に伴ひてその需要大なるものあればなり。西伯利亜風の蜜漬の胡桃、みづの辛子漬、菊芋の富錦など製造さへ成らば販路更に大ならんのみ。」

賢治先生の北海道修学旅行



(本文開始)

そもそも拙者ほんものの清教徒ならば
或ひは一〇〇%のさむらひならば
これこそ天の恵みと考へ
町あたりから借金なんぞ一文もせず
八月までは
だまってこれだけ食べる筈
けだし八月の末までは
何の収入もないときめた
この荒れ畑の切り返しから
今日突然に湧き出した
三十キロでも利かないやうな
うすい黄いろのこの菊芋
あしたもきっとこれだけとれ、
更に三四の日を保する
このエルサレムアーティチョーク
イヌリンを含み果糖を含み
小亜細亜では生でたべ
ラテン種族は煮てたべる
古風な果蔬トピナムボー
さはさりながらこゝらでは
一人も交易の相手がなく
結局やっぱりはじめのやうに
拙者ひとりでたべるわけ
但しこれだけひといろでは
八月までに必らず病む
参って死んでしまっても
動機説では成功といふ
ところが拙者のこのごろは
精神主義ではないのであって
動機や何かの清純よりは
行程をこそ重しとする
つまりは米もほしいとあって
売れる限りは本も売り
ぽろぽろ借金などもして
曖昧な暮しやうをするといふのは
いくら理屈をくっつけても
すでにはなはだ邪道である
とにかく汗でがたがた寒い
ごみを集めて
火を焚かう
槻の向ふに日が落ちて
乾いた風が西から吹く

(本文終了)

画像は、はるかぜるりい様からいただきました。



#宮沢賢治 #キクイモ #羅須地人協会

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