宮沢賢治のリヤカーは10年早かった
宮沢賢治は、1927(昭和2)年ごろ、農作業にリヤカーを使っていました。白菜やグラジオラスを収穫出荷販売するときなどに使っていました。「当時の農村でリヤカーは、ベンツのような高価なもので、非常識だった」という人もいます。
また、賢治自身もリヤカーで野菜を売りに行く姿を、農民から嫉妬される詩を書きました。
https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202101030000/
リヤカーは、1921年ごろに登場したもので、当時はまだまだ珍しく高価なものであったことは確かです。
https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202101040000/
しかし、価格そのものは、裕福な農家なら買えない値段ではありませんでした。価格よりはむしろ新しすぎたのかもしれません。
https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202101070000/
ただ、賢治が嫉妬と思った視線は、むしろ羨望だったかもしれません。
詩から8年後、賢治の死の2年後の、昭和10年には、リヤカーの価格は半分となりました。商業などで需要が増え大量生産するようになったことと、トラックの少なかった陸軍が軍事用として戦時に徴用するために、生産が奨励されたためです。賢治の死の7年後の1940(昭和15)年には、岩手県の農業用リヤカーは3万台を超えるほど普及しました。
https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202101060000/
死後、賢治の文学作品が有名になり、賢治とリヤカーの関係も有名になりました。
宮沢賢治研究家の鈴木守氏が、ブログで、リヤカーを引く賢治風の人物の写真について、考察されています。
https://blog.goo.ne.jp/suzukishuhoku/e/f6daf57924815f25b2b2edd0ad110f26
賢治の死後、賢治のコスプレの小道具としてリヤカーが使われるほど、賢治とリヤカーが結び付いて考えられていると思うと感慨深いものがあります。
賢治のリヤカーは、10年早かったのかもしれません。
リヤカーの写真は、みんなのフォトギャラリーから、ハタモト様の作品をお借りしました。