賢治先生の北海道修学旅行5/18夜花巻発、5/19青函連絡船に乗る
宮沢賢治の花巻農学校教師時代の北海道修学旅行復命書を読み解いています。
https://note.com/cxq03315/n/n8d4223b4d71e
しかし、復命書は5月20日の小樽からしか現存しません。今回は出発から青函連絡船まで他の資料や小説「或る農学生の日誌」から、ご紹介します。
1924(大正13)年5月18日午後8時、花巻農学校修学旅行一行31名は学校に集合します。
教師2名(宮沢賢治、白藤慈秀)
保護者3名
生徒(二年生)26名
午後8時59分花巻駅発の青森行き夜行列車に乗ります。
1891(明治24)年に上野青森間が全線開通して、当時すでに30年以上たっていた東北本線ですが、長距離列車に乗る機会の少ない生徒たちには、珍しい経験だったようです。
創作ながら、賢治の小説「或る農学生の日誌」が雰囲気をよく伝えていますので引用します。小説では現実の1924年の1年後の1925年5月18日になっていることに注意してください。
(引用開始)
一九二五、五、一八、
汽車は闇のなかをどんどん北へ走って行く。盛岡の上のそらがまだぼうっと明るく濁って見える。黒い藪だの松林だのぐんぐん窓を通って行く。北上山地の上のへりが時々かすかに見える。
さあいよいよぼくらも岩手県はなれるのだ。
うちではみんなもう寝ただろう。祖母さんはぼくにお守りを借してくれた。さよなら、北上山地、北上川、岩手県の夜の風、今武田先生が廻ってみんなの席の工合や何かを見て行った。
(引用終了)
青空文庫で「或る農学生の日誌」の全文が読めます。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/45471_36075.html
この日は車中泊です。
27才の若い賢治と、さらに若い生徒たちとはいえ、寝台列車でもない座席の夜行列車ですから疲れたと思います。
約8時間乗車して、翌日5月19日午前5時20分青森駅に到着します。乗り継ぎ時間を利用して海岸の大きな冷蔵庫を見学しました。
そして、午前7時55分発の青函連絡船「田村丸」に乗船し函館に向かいます。
田村丸は、1908(明治41)年イギリス製、全長約90m、総トン数約1500トン、定員約330名の蒸気タービン船でした。
現在の全長200m、1万トンを超える北海道行きカーフェリーにくらべるとかなり小さいですが(生徒が片舷によりすぎて船が傾く描写があります。)船にあまり乗らない生徒たちには、大きく見えたことでしょう。
写真は「田村丸」と同型の青函連絡船「比羅夫丸」の絵はがきです。
賢治は船上で詩「津軽海峡」を作りました。
https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202102190001/
創作ながら、小説「或る農学生の日誌」から、青函連絡船上の生徒たちの雰囲気がよく伝わる部分を引用します。
(引用開始)
船はいま黒い煙を青森の方へ長くひいて下北半島と津軽半島の間を通って海峡へ出るところだ。みんなは校歌をうたっている。けむりの影かげは波にうつって黒い鏡のようだ。津軽半島の方はまるで学校にある広重の絵のようだ。山の谷がみんな海まで来ているのだ。そして海岸にわずかの砂浜があってそこには巨きな黒松の並木のある街道が通っている。少し大きな谷には小さな家が二、三十も建っていてそこの浜には五、六そうの舟もある。
さっきから見えていた白い燈台はすぐそこだ。ぼくは船が横を通る間にだまってすっかり見てやろう。絵が上手だといいんだけれども僕は絵は描けないから覚えて行ってみんな話すのだ。風は寒いけれどもいい天気だ。僕は少しも船に酔わない。ほかにも誰も酔ったものはない。
いるかの群が船の横を通っている。いちばんはじめに見附けたのは僕だ。ちょっと向うを見たら何か黒いものが波から抜け出て小さな弧を描いてまた波へはいったのでどうしたのかと思ってみていたらまたすぐ近くにも出た。それからあっちにもこっちにも出た。そこでぼくはみんなに知らせた。何だか手を気を付けの姿勢で水を出たり入ったりしているようで滑稽だ。
先生も何だかわからなかったようだが漁師の頭らしい洋服を着た肥った人がああいるかですと云った。あんまりみんな甲板のこっち側へばかり来たものだから少し船が傾いた。
風が出てきた。
何だか波が高くなってきた。
東も西も海だ。向うにもう北海道が見える。何だか工合がわるくなってきた。
(引用終了)
一行は、約5時間の船旅ののち、昼の12時55分に函館港に着きました。出発から約16時間がたっていました。
次回は函館の工場見学と函館公園の花見です。