賢治先生の北海道修学旅行 5月21日午後 さらば札幌 北上山地を砕け! 石灰工場技師への道
宮沢賢治の花巻農学校教師時代の北海道修学旅行復命書を読み解いています。
復命書はこちらです。
https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202102150000/
一行31名は、1924(大正13)年5月18日夜に花巻を出発。鉄道と青函連絡船を使い、途中函館、小樽を見学しながら、車中泊2日の強行軍で5月20日午後、札幌に到着。北大植物園、中島公園を見学、札幌駅前の山形屋旅館に宿泊。21日はビール工場、製麻工場を見学。
北海道帝国大学では大歓迎を受けました。
中島公園の植民館(拓殖館)では、開拓の歴史に思いをはせ、花巻温泉のお土産物商品開発を検討しました。
楽しく有意義だった札幌見学も終わりに近づきました。
中島公園植民館(拓殖館)から札幌駅に向かう途中に、石灰工場に関する重要な記述があります。晩年、賢治が石灰工場で働くことになる伏線といえます。
(引用開始)
植民館を辞し停車場に向ふ。
途中北海道石灰会社石灰岩抹を販るあり。これ酸性土壌地改良唯一の物なり。米国之を用ふる既に年あり。内地未だ之を製せず。早くかの北上山地の一角を砕き来りて我が荒涼たる洪積不良土に施与し草地に自らなるクローバーとチモシイとの波を作り耕地に油々漸々たる禾穀を成ぜん。
(引用終了)
中島公園から札幌駅に向かう途中で、石灰工場を見たようです。
画像は、札幌市中央図書館ホームページからダウンロードした、「札幌市大地図」(大正9年)です。南の中島公園から北の停車場(札幌駅)のあいだに石灰工場は残念ながら記載されていませんでした。
どんな工場がどこにあったのか、今後調べてみたいと思います。
「石灰岩抹」が「酸性土壌改良唯一の物」は少し大げさです。当時の日本では、酸性土壌改良には消石灰(水酸化カルシウム)が主に使われていました。消石灰は効き目が早い長所がありますが、値段が比較的高く、アルカリ性が強く、散布時に失明の危険がありました。石灰岩抹(炭酸カルシウム)は、効き目はゆっくりですが長く、値段が安く、安全です。
アメリカで石灰岩抹を酸性土壌改良に使っていることは、恩師の関豊太郎から聴いていたのだと思います。
まさに、北上山地から石灰岩を採掘して、粉砕して炭酸カルシウム肥料にする工場で、晩年の賢治は働くことになります。
岩手県の洪積台地の酸性不良土壌を、クローバーやチモシーの豊かな草地にしたいという夢をかたっています。乳牛や肉牛の産地にしたいと考えたのでしょう。
また、耕地でぴかぴかつやつやできれいに揃った(油々漸々たる)禾穀を栽培したいと、いっています。禾穀(かこく)は、水稲、小麦、大麦など、イネ科の穀物全般を指すことばです。台地は水の不便なところですから、水稲よりも麦類、特に酸性に弱い大麦を、賢治は念頭においていたと思います。
また、「油々漸々」(ゆゆぜんぜん)は、大麦の葉がぴかぴかで、穂が揃って伸びていることを誉める古代中国の表現です。紀元前12世紀ごろの殷王朝時代の箕子(きし)が詠んだ詩が起源のようです。
麥秀歌「麥秀漸漸兮、禾黍油油。彼狡僮兮、不與我好兮。」
「麦の穂秀でて漸々たり、禾黍の葉光て油々たり。かの狡童、われと好からず。」
(引用開始)
四時三分案内の大学生二氏に行進歌を以て謝意を表し札幌を発し車中苫小牧に至る。
(引用終了)
案内してくれた北海道帝国大学の学生二人に行進歌を歌ってお礼をします。
賢治先生が作詞などをして、生徒に愛された行進歌といえば、「黎明(れいめい)行進歌」「角礫(かくれき)行進歌」「バナナン大将の行進歌」があります。バナナン大将は雰囲気にあわなさそうなので、黎明か角礫だと思います。
宮沢賢治研究家のhamagaki氏のホームページで行進歌を聴くことができます。
黎明行進歌
角礫行進歌
バナナン大将の行進歌
一行は、午後4時3分の列車に乗って、苫小牧に向かいます。
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