宮沢賢治 作 「病院の花壇」結核発症前に病院で仕事をしていた園芸家賢治。
花巻共立病院の花壇を作った賢治
宮沢賢治は、1928(昭和3)年8月10日に結核による両側肺湿潤の診断を受け、自宅で花巻共立病院(現 総合花巻病院)の医師たちの治療をうけることとなりました。
賢治は、結核で倒れる前に、花巻共立病院の花壇を設計施工していました。医師たちとも知り合いでした。
父の事業と賢治
賢治の父が、病院の設立を支援していましたので、賢治もそれを手伝ったものと思われます。資本家としての父には反発していた賢治ですが、慈善事業家としての父には協力的だったのでしょう。
東京農産商会とは
東京農産商会からヒアシンスを取り寄せたようです。1928(昭和3)年6月の東京旅行の手帳のメモにある、「農産商会」とは、ここのことかもしれません。
ヒアシンスは、賢治が思っていたものと違い、黒っぽい花色だったようです。
病院の花壇(本文)
(本文開始)
病院の花壇
夜どほしの温い雨にも色あせず
あんまり暗く薫りも高い
この十六のヒアシンス
まっ白な石灰岩の方形のなかへ
水いろと濃い空碧で
すっきりとした折線を
二つ組まうとおもったのに
東京農産商会は
このまっ黒な春の吊旗を送ってよこし
みんなはむしろいぶかしさうにながめてゐる
今朝は截って
春の水を湛えたコップにさし
各科と事務所へ三つづつ
院長室へ一本配り
こゝへは白いキャンデタフトを播きつけやう
つめくさの芽もいちめんそろってのびだしたし
廊下の向ふで七面鳥は
もいちどゴブルゴブルといふ
女学校ではピアノの音
にはかにかっと陽がさしてくる
鋏とコップをとりに行かう