菊池信一への手紙を読み解く 3 「むちゃくちゃ」に働いた前年との違い
宮沢賢治から教え子の菊池信一あての手紙を読み解き、賢治の考えや、当時の農業技術について考えます。
賢治からの手紙
書簡239 「1928年7月3日 菊池信一あて封書」 倒れる前の賢治の予定
https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202107250000/
稲の形が定まってからの巡回
「すっかり稲の形が定まってからのことにして」
現代農業であれば、稲の形が定まる前に、いろいろ打つ手があります。生育不足なら追肥をするとか、生育過剰なら倒伏軽減剤もあります。
しかし、基肥重視のこの時代の稲作では、生育不足でも基肥が利くのを待つしかありませんし、生育過剰でも葉をむしるくらいしか対策がありません。
「来年の見当をつけるだけのことにしようと思ひます。」
賢治は、ことしの対策はあきらめて、稲を見ながら、来年の基肥量などを話し合う巡回相談に切り換えるつもりだったようです。
教え子菊池への信頼
「お手数でも訊かれたらどうかさうご返事願ひます。」
上記のような基本方針を伝えて、農家からの問い合わせに対して、回答を菊池に任せたようです。賢治の肥料相談所の助手のような仕事をしていた菊池信一に対する、深い信頼が感じられます。
前年の「むちゃくちゃ」な働きとの違い
前年1927(昭和2)年の賢治は、自然と天候に抗い、「むちゃくちゃ」に働いていたようです。
1927(昭和2)年8月20日の詩「もうはたらくな」では「おれが肥料を設計し/責任のあるみんなの稲が/次から次と倒れたのだ/稲が次々倒れたのだ/働くことの卑怯なときが/工場ばかりにあるのでない/ことにむちゃくちゃはたらいて/不安をまぎらかさうとする、/卑しいことだ」と書いていました。
前年の1927(昭和2)年の7月8月にむちゃくちゃに働いてみて、大自然の力に対して、当時の科学と人間の無力さを感じて、この年、1928(昭和3)年の賢治は、ある種の諦観の境地にあったのかもしれません。
やはり働きすぎの賢治
しかし、結局は1928年も積極的に水田を巡回し、7月20日には発熱して停留所で倒れてしまいます。
宮沢賢治 作 「停留所にてスヰトンを喫す」(初期形)
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