不幸であることに慣れてしまって
不幸であることに慣れている。仕事がうまくいかないこと,金がないこと,恋人がいないことにも。ないないづくしに,慣れている。だから,最近幸せになってしまって,思わず人生が楽しくなってきて,夜が怖いと感じる。不幸の時は,夜が好きだったのに。夜は,一人でいることの暗黙の肯定だった。
恋人が私に何でも与えようとしてきたり,「ずっと一緒だよ」と言ったりすることが怖い。恋人が結婚のことを真剣に考えていることも怖い。でも,それは,結局「嫌われるのが怖い」という一言に集約される。だから,恋人はしばらくつくらないことにしていたのに。
働いて疲れて寝ている顔を見て,この人の「ずっと」っていつまでなんだろう。とか,「ずっと」って本当に思っているのかな。「ずっと」の終わりは意外とすぐに来ることを知っているけれど,今の私が欲しいからそういうことを言っているのかな。とか考えてしまう。始まってしまえば必ず終わりがやってきて,その終わりとは,すぐ近くにいるのだと誰もが知っている。例えば,大好きな曲も毎日聴いていると飽きてしまうように,「好き」も毎日何年も何ヶ月も続くわけではない。中学校の時に大好きだった太一くんとのことも,今では思い出しても何とも思わなくなってしまったのだ。
英語でいえば,「like」と「love」は状態動詞。動作動詞:つまり一過性のものはing形で表すのだけれど,状態動詞はing形にはできないのだ。likeとloveは一過性のものではないという捉えなのだろう。だけど,私にとって「好き」や「愛」というのは動作であり,ほんの一過性のものだ。だから,恋人がこの先のことを示唆するたびに,心がざわつく。戻る場所も,帰る場所もないのに,どこかに戻りたい,帰りたいと思ってしまう。絶対の場所や永遠の気持ちなんてないし,そんなものを自称するものを信用できない。そんな不安を抱えて,今日も恋人の寝顔をじっと見て,震えている。
儚い自分でいたい。この世からいつでも省かれて,いつでも簡単に消えて,存在ごとシュワシュワ消えていくことができるような。だけど,儚い自分でいるには,生活はあまりにも現実的すぎる。誰かの知る自分であるし,誰かに迷惑をかけて生きているし,誰かの世話をして生きている。儚く成れない。消えてしまえれば,どんなに楽だろう。だけど,それができなくて怖いから,「消えたい私」に恋人が気づいて抱きしめてくれることを望んでしまう。気づかれないように,だけど感じてもらえるように「消えたい自分」を匂わせている。そんな自分が,嫌いで憎い。