「泣かなかったよ」
散歩してたら息子が派手に転びました。
子どもという生き物はなぜああもいきなりすっ転べるのだろうか?石橋を叩くツールを持ち合わせていないというのは失うものがないということなのかもしれず、何かしらの庇護のもとにある証でもあるな、とぼんやりと思ってしまった。
もとい、ビターン!と転んだ息子が起き上がらない。大丈夫?とコンクリートの床に突っ伏したままの顔のそばまで近づいてみる。
すると息子はゆっくりこちらに顔を起こしてきて
「泣かなかったよ」
と言った。
見ると目立った外傷はなさそうである。が、転ぶということ、大きな痛みを伴っていないとしても、それまでの軽快な前進からのギャップ、衝撃、うまくやり過ごせなかったことによるプライドの損傷など子どもにとってはそれなりに泣く理由の詰まった事件なのだ。
そこを「泣かなかった」のはやはりこらえることができたということなのであって、ひとつ大人になったことを意味している。そしてそれを申告してくるということは、そこに偉かったでしょ?という気持ちがあるからなんですよね。
もちろんぎゅーっとして盛大に偉かったねぇと褒めますし、実際頑張ったね!という気持ちでいっぱいではあるのですが、泣きたいのをこらえるという行為じたいが美徳とあまり思っていない私なので、もちろん静かな場所で盛大に泣き叫んだら騒音が周囲に迷惑ですけれど、そうじゃないなら、泣きたいのなら思い切り泣いてもいいんじゃない?と少し釈然としないものが私の中に残ります。
とはいえ、泣くのを我慢するのってべつに偉くもなんともなくない?とか言うつもりは毛頭なく、世の道徳をなんとなく会得した上で、じゃああなたはどう思う?という話であるのだし、今は手放しで思い切り褒める、が私の中の最善策であるのも確かです。
まあそんな個々の道徳観の話は置いておいたとしても、「泣かなかったよ」という台詞、成長を感じずにはおれず、なかなかくるものがあります。明日で3歳。
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