「そうだよきっと」
このnote、息子の発した言葉を書き留める成長記録的にはじめましたが、まぁちょっとそこのガイドラインは守りつつ、たいして更新してないのにガイドラインもへったくれもないわけなんですが、もう少し言葉に限らない記録をしたほうがいいんじゃないかと今は思っています。
というのがですね、離婚しました。
離婚前は、仕事家事育児を分け合うというライフスタイルを目指していたわけですが(結果がどうであったかはともかく)、離婚によっていよいよ育児に言い訳できない、逃げ道のないところに来ました。もちろん、私は私ひとりで息子を育てていくんだ、なんて思っていなくて、実際今回のことに関しても本当に本当に本当に多くの友人の力を借りまくってなんとか私と息子は生きているわけでして、なるべくいろんな人を頼って息子を育てていきたい。というかあわよくば勝手に育って欲しい。
とはいえ、息子と毎日過ごすのは他でもない私なのであり、そういった立場に立つと、育児とは何か、それすなわち責任なのだろうなと改めて思っています。どんなやりかたで育てるか、みたいなことって人それぞれだし時代にもよるし、まぁそれは育児に限らないのだけど、自分が信じる道を進む、が結局その人にとっての大正解であり、それが子であったり他者にとって正解かどうかっていうのはもう博打でしかなく、だから自分を損ねないようにしたほうが絶対にいい。
今回つくづく思ったのが「家族なんだから何があっても協力しあって波を乗り越えていかないと」とか「片親になると子どもがかわいそう」とか「母乳で育てないなんて信じられない」とか「3歳までは保育園に預けるべきではない」とか「肉を食べると身体に毒」とか「アラサーになるともうおばさん」とかですね、なんでもいいんですけど、それが当てはまる人と当てはまらない人がいるというだけの話ですし、全体的に神話の一種であって、神話って呪いでもあるというか。とらわれたいならとらわれてもいい。とらわれなくてもいい。そのかわり自分の選択に責任を持つ。というのが私は好きです。
だから私は息子に「こんなことになって本当にごめんね」みたいに謝るということは絶対にしたくないです。そのリアクションって許しのようなものになってしまうから。もちろん今回のことで息子はすごくいろんなことを感じ取っていて、マジでいちばん大人だなと感心することしきりなんですけど、そこに対して許しを乞うことはしないように気をつけたいなと思っています。
日々息子と過ごしていてありがたいなと思うのは、子どもって変化の塊だなということで。まだ3歳ということもあるけど、どんどん考え方や見える世界が進化していて、なぜオムツをしているのにおねしょをするの?みたいなこともたくさんあるんですけど、映画のセリフを完璧に覚えていたりとか、人を思いやる気持ちをふと覗かせたりとか、えー!っていうようなこともたくさんあって。なかでも、やはり言葉の成長を通して見えてくるものは大きいのです。
朝、自転車の後ろでブツブツしゃべっていることが劇的に面白い、なんてことも多々あるのですが、保育園に着く頃には私がすっかり忘れてしまう。なのでnoteにも書けない。そんな日々を過ごしていますが、自分の決意や考えていることなどを織り交ぜながら、もっと更新していければなと思っています。
息子の言い回しでとても好きなもののひとつに「そうだよきっと」とか「きっとそうだね」というのがあります。「おそばやさんは今日おやすみだね」「チューリップはもう咲いてないね」みたいなセリフに私が相槌を打つと、こうやって返してきます。「そうだよきっと」「きっとそうだね」ってすごく希望に満ちた言い回しだと思う。聞くたびになんだかうれしくなります。
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