与えられた自由をうまく使いたいけど・・
先日「生き物の死にざま」という本を読んだ。
様々な生き物の死を描いた本だ。
生き物の死に方を見て、自分はとてつもない自由を手にしていることを感じた。
得た自由をうまく使っていきたい。
シロアリ女王の死
本によると、シロアリの女王は、生きているうちはただただ卵を産み続ける。巨大な腹部を持つ女王アリは、自力で移動できなず、働きアリたちに運んでもらわない限り、移動することさえできない。
そして、以下のように死を迎える。
歳を取り、卵を産む能力の低くなった女王アリは、働きアリたちに見向きもされず、容赦なく捨てられていく。
中略
もう誰も餌を運んでくることはないだろう。たくさんの子供たちを産んだ思い出の詰まった古い部屋に、彼女だけが置き去りにされていく。
それが女王である彼女の最期である。
あくまで人間から見た解釈しかできないが、属する社会の中での役割とその存在意義の距離は、現代の社会と比べるととても近いというか、ほぼイコールのようである。
擬人化しすぎた解釈をすると、女王は自分のことは置いといてみんなは生きてね、みたいな感覚を持っているかもしれないし、人間にはわからない方法での価値観にのっとったコミュニケーションをしているかもしれない。
ただし、ここでは厳密さを置いておいて、死ぬまでに、考えることも行動することも自由を与えられている、ということについて考えたい。
自由・余暇をうまく使えているか
私は、なかなか自分を律することができず、早くやるべき仕事を後回しにするわ、せっかくの休日をだらだらとテレビをみてすごすわ、、、余暇をうまく使えていない。
時々集中して何かに取り組んだときは、とてつもない達成感を感じる。だらだらするつもりで、だらだらすることはよいと思う。
一方で、何かやりたい・やるべきと思っている時に、何かにとらわれて時間を過ごした時は非常に後悔する。
そのとらわれる'何か'は多くの場合、テレビ・スマホだ。
以下のレポートに記載の情報によると、1995年と2015年で余暇の時間は変化していないが、その内訳としてインターネットが急増しているそうである。
この記事では質でなく、メディアが変化したことからのビジネスチャンスが中心の議題になっているが、果たして依然と比べて私たちは余暇をうまく使えているであろうか?
もっとちゃんと調べれば出るのかもしれないが、ここでは自分の推論のもとで以下考える。
私は、私を含む多くの人たちは、以前よりも余暇をうまく使えていない、と考える。
最も課題だと思うことは、主体性を失い、外側からの刺激の虜になっていることだ。
テレビのニュースや、スマホを開くと、消費を喚起するニュースや情報、広告が大量に流れてくる。
マストアイテム、乗り遅れるな、今年の流行色、一度は訪れるべき、、、、
今年の流行色なんてものは、まったく意味が分からない。定義からすると流行色なんてものでないはずなのに、消費をあおる名前にしている。
でも、とりあえず消費してみたり、目新しさが面白かったりして、それに時間を使ってしまう。
ここに主体性はない。
ただ、自分の外側にあるもの、与えられるものを消費して、飽きて、次の刺激が来て、それに反応してを繰り返しているだけ。
流行に乗って楽しむことや欲望を刺激されて衝動的に買い物などをすること、一時的な享楽を楽しむことを一切してはならないわけではない。
ただし、それだけでは、自分の幸福が他人に決められてしまうことになる。
意識的に自分で判断できるようになること、正しい、好きだと思うことは何かと問い続けることを続けた先にそれはある(と思う)
日々感じる違和感は、その兆しのようなもの。
でも、ほおっておくとすぐに通り過ぎてしまう。
だから、Noteを使って記録して、これからも考えていく。
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