やる前に価値はわからない。やってはじめて分かる。
娘が小学校に入学した。
初めての登校日、娘を校門の近くまで送って、「ここからは自分で行けるかな?」と聞いた。娘は、少し不安そうに「うん、大丈夫」と言って、横断歩道を渡って校門を通り、学校に入っていった。
横断歩道を渡るとき一度振り返って、そのあとはまっすぐ歩いて行った。
親になってよかった。と思った。
保育園を転園した時は、1か月ほど送りの時に抱き着いて離れなかった娘が、慣れない環境にも一人で立ち向かえるようになった。
ひとりだったらもっと自由に過ごせただろうと思いながら、夜泣きする娘をあやしたり、毎日送り迎えをしたり、休日中公園で過ごしたことがあった。
でも、明確に言葉でいえないのだが、親になってよかったと思うことが時々ある。自分の選択や境遇を正当化したい気持ちもあるのかもしれない。でもなんとなく、人類はある程度普遍的に子孫に何かを引き継いでいくことに喜びを感じるんじゃないかと思う。その喜びを体感することがある。
この感覚は、やってみて初めて分かるものだと思う。
結婚するメリットが分からない、人と付き合う価値がわからない、と聞くことがある。
もし、その人がそれをやったことがないのであれば、その言葉は無意味だ。
就活シーズンにでる今年の就活生の人気企業くらい無意味だ。
やったことのないことの価値は判断できないからだ。
人を好きになること、付き合うこと、結婚すること、子供を持つこと、働くこと、一人海外旅に行くこと、いじめること、いじめられること、けんかすること、絵を描くこと、楽器を演奏すること、身近な人を亡くすこと
色々な体験がある。やる前に、いろいろ考えてみても本当の価値は分からない。そのうえ厄介なのが、やらない理由はあげることができる。
やらない理由をあげることができるのは、面倒だからなのと、頭で考えられるからだ。一方で、価値は、体や心で感じるものだ。
頭で考えてコスパのいい判断をすることは、不安や不満を解消できるけれど、それは体や心で感じる幸福とは関係がない。
AIって何でもできる、それで世の中が変わると言われるが、それは「不」が減って、コスパがいい生活ができるだけ。幸福や喜びは生まない。
それらを生むのは、個人にしかできない。
いろんなことをやってみようと思う。
自分が何に魅力を感じるかに敏感になって、あまり考えずに始めてみる。
今日は、ハーブをいくつか買ってベランダに植えた。
明日は、少し時間がありそうだから、気になっていた本を読もう。