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自分の欲望は自分で考える。広告や流行に乗っても満たされない。
広告とはなんだろうか。
Weblio辞書によると、
広告とは、「世間に広く知らせること」であり、とりわけ商品やサービスなどに関する情報を世間の多くの人に知らせ・興味を抱かせ・購入その他の行動を促す、そのために行われる情報伝達もしくは情報伝達の媒体や伝達内容のことである。
広告は世の中を幸せにしているのかを考えたときに、そうではないような気がしたので、少し考えてみた。
欲しいものは自分で考える・見つけるものであるのに、そこに行き着くのを遠ざけるもの、それが広告と今は考えている。
考えるようになったきっかけ
朝のニュースを除いて、録画以外のテレビを見ないことにしている。
CMが邪魔だからだ。
Youtubeでよく音楽を聴くが、最近はCMが多すぎて不快。
数年前は、スマホでネットを見ると、いかにも間違えてクリックをさせる位置にリンクを置いたり、一切求めてもいないのに画面の一部で動画を流したりする悪質な広告にあふれていた。
これって誰が得をしているのであろうか?
あのような広告をもとに購入する人がいるのか?
もし広告をもとに購入して、満足しているとしてもそれは購入しなかった時と比べて良い状態なのか?
あなたが無料でテレビやネットの情報を閲覧しているのはその広告のおかげだろう、という反論もあるかとおもう。
ただし、いくら広告で支えられていようと、必需品であれ嗜好品であれそれらの購入は他人に強制されるものではない。
広告を出している側、載せている側の観点・利点
広告を載せたい企業側は、企業や製品などを知ってもらうことやイメージを上げることが目的。
広告を載せる側は場所を貸して収入を得ることが目的で、もちろん長期的にはそのプラットフォームが続くことは言わずもがなも目的。
両サイドが得をしない状態になっていないか?
受け手側の視点 時間泥棒としての広告
広告しているのは、広告をしないと売れない、場合によってはイメージ以外違いのない嗜好品。
広告を受ける側の視点に立つと、広告が生み出すのは、他人に感化された「欲しい感情」。
それを楽しむのを否定しないが、広告にあふれすぎた今では他人に舵をとられた人生となっている人は多いのではないか。
流行のスイーツ、みんな持ってるiPhone、新しいテーマパーク、バーゲン、脱毛・美容整形・・・・
行かなきゃ損、乗り遅れるな、これを持っていれば無難・あなたを次のステージに、と言ったメッセージに溢れている。
それらのメッセージを冷静に見てみる必要がある。
行かなきゃ損と言われるが、そもそもバーゲンなどで損してないか。
他人の流行に乗り遅れて何か困るんだっけ、むしろ無難な人生を求めてるんだっけ。
広告に感化されて、不満・欲が発生して、それを埋め合わせて満足したところで、次の不満が発生する。
自分にとって何が必要かを考えるプロセスを他人に任せている限り、そこから抜け出すことはない。
この過程・状態はHedonic treadmillというそうだ。
会社の仕事に満足できない、面白みを感じられないというのも、この状態にあたる。
結果を出して、褒められた・お金をもらったところで、生み出したものが自分の欲と関係ない場合はいつにたっても虚しさしかない。
広告にもよい効果はある
上記のように否定をしまくったが、広告=悪ではない。
流行などの周囲との約束事は、親密さのメンテナンスにも役立ちはするし、上っ面であれ流行を楽しむのは気晴らしになる。
また、シェアリングエコノミーといった新しいプラットフォームを作り出すことや、サステナビリティといった意識づけのためには、知らしめることが重要でその領域で広告には大きな意義がある。
今回言いたかったのは、自分が欲しいものは楽をせずに考えて挑戦して獲得していくことの重要性と、そこに至りたいのであれば、広告に惑わされないことが重要だということ。