祖父の死、今の日常への感謝
先週、祖父が亡くなり、実家に帰った。
葬式に出ると、自分が亡くなった人のことをほとんんど知らなかったことに気づく。
自分から見た祖父
祖父は、小さな喜びを知る人だった。
嫁いびりをし、華道関連で自己主張が強く少し疎まれていた祖母とは、対照的だった。
日中は、鉢植えの植物の世話をし、時に畑に行き、夜は本を読んで寝る。
毎晩寝る前には、仏前でお参りをしていた。
いつも本にはカバーがかかっていて、どんな本を読んでいるのか聞いてみると一応はその題名や内容を教えてくれるが、祖父にとって本は睡眠導入剤なのだと言っていた。
私は、いろいろなことに理由を求めてしまう人間だが、祖父は理由よりもその行為自体を誰にも主張することなく楽しんでいた。
祖父の死
その祖父は、数年前から特別介護老人ホームで認知症の祖母と生活をし、その祖母はちょうど一年前に亡くなった。
祖母の葬儀の時に、祖父が泣いているのを初めて見た。
生前祖父は、我が強く周りから少し疎まれがちな祖母とどのような会話をしていたのだろうか。
祖母が亡くなった頃から、祖父は軽度の認知症のようなものを発症した。
そして、今年の7月に脳卒中で緊急入院、一命を取り留めたのち、先日亡くなった。
ショックを受けている自分から一歩引く
私が祖父の死を知ったのは、父からのLINEだった。早朝だったからだ。
覚悟はしていた。脳卒中になった時に、94歳という年齢もあり臓器がもうあまり持たないであろうと言われていたからだ。
この3年連続で祖父母を亡くしている。
その一昨年まで近い親族の死を経験したことはなく、2年前は死という事実や、焼却による肉体との別れそれぞれに大いに動揺した。
2度と会えないという事実を受け入れられなかった。
しかし、不思議と慣れてしまうもので、動揺はしなくなる。
よくある人の死に対して泣いている人が多いこと、泣くことを良しとされるが、そんなことはないと思う。
動揺している時、我々は何も考えられない。ただただショックを受けて、なぜ泣いているのかさえ分からない。
その動揺と自分に線を引けることが、お別れをして前に進むに重要だ。
(自分の子供の葬式ではこんなこと言う自信は全くないが)
動揺をしなくなったことで、その別れを噛み締め、感謝をできるようになってきた。
他人のことはほとんどわからない
思い出を振り返る中や、参列者をみることで分かるのは、自分はその人のことをほとんど知らなかったのではないかということだ。
小学校の間、祖父母と一緒に寝ていた。彼らがいつもいたのは掘りごたつの部屋で、そこで一緒にテレビを見たり話をしたりした。
一緒に近くのダイエー⦅ショッピングセンタ⦆に行ったこともある。
大学になって料理を作ってダメ出しをされたこともある。
思い出を振り返れば振り返るほど、感謝の感情は出てくるが、その人を一面的にしか捉えていたいことに気づく。
町内会のようなところから酔っ払いながら帰ってきた彼を見たことがあるが、その場でどんな振る舞いをしていたかも、周りからどう思われていたかもしらない。
若い頃に、好きな人がいたのかもしらない。
コロナウィルスの影響で面会さえできない状況で、何を考えて生活をしていたのかもしらない。
自分は、「祖父」としての祖父しか知らない。
一寸先は闇だからこそ
ほとんど何もしらないことがわかると、そこで浮かんでくるものがある。
自分に見せた姿が、ほんの一部の面であれど、それに対して感謝しているということ。
彼が自分の祖父で家や自分を大切にしていたことや、信頼に値する人だということは知っている。
もし私たちが「死」と定義しているものの先があるのであればそこでの彼なりの幸福を祈っている。
もしなくても、私は、彼がいたこと、してくれたことに感謝している。
両親とは離れて暮らしていて、会えるとしても多くて数十日であろう。
自分が直後に事故に巻き込まれて死ぬ可能性だってある。
自分を一番近くで、深く支えてくれている両親、妻、子供に改めて感謝を感じる。ありきたりだが、今を大切に生きようと思う。
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