葬式はフリーフォールのよう
フリーフォールという言い方は不謹慎かもしれないが、葬式では何度も非常に大きく感情を揺さぶられる。
もっとも、葬式は故人への感謝、その他の想いをしみじみをかみしめ別れをする重要な儀式で、その行為は一人の人間として謙虚に、周囲への感謝を感じながら、日々を大切に生きようとすることにつながるものである。
私の一族(?)はとても健康長寿だと思う。
一昨年までは、全祖父母が生きていた。
まだまだ亡くなるのは先だろうという希望的観測と、あと何回会えるかわからないという現実的な考え、それを踏まえながら年1・2度しか帰らないという不甲斐なさでのうのうと生活していた。
いつか来るだろうと思っていても、お別れは突然に来る。
一昨年、昨年と、立て続けに祖父・祖母が亡くなった。
自分にとって身近な親族が亡くなるのは初めてだった。
覚悟をしていても悲しいものだ。
棺桶のなかの祖父母をみると涙が出る、火葬場で焼かれるときの別れで本当に最後なのだと感じ涙が出る。これまでの感謝を改めて振り返り、日々を大切に謙虚に生きようという動機につながる。
喧嘩をしたこと、憎いと思ったことももちろん思い出すが、感謝が残る。
一方で、葬式の全体を振り返るととても不思議な感じがする。
先述の悲しいと感じることの間に、それを忘れて楽しんでいる時間と、ただお経を聞きながらボーッとしている時間がある。
故人と向き合う時間以外は、久しぶりに会う親族と楽しく話したり、子供同士で遊んだりととても和やかな時間で、故人のことに触れることはあまりない。
さっき一緒にめちゃくちゃ泣いてた人が、席に座ったままじーっとスマホをいじってたりする。
自分は死後の世界や特定の宗教を信じていないため、お経の時間や式場の雰囲気を非現実的な不思議な世界に感じる。
葬式全体の過程には、大きな悲しさと向き合う部分が3回くらいあり、その間にその悲しさを全く忘れた日常的か正月・同窓会のような時間が挟まれている。ジェットコースターというより、同じところでのんびりと登って急に落下を繰り返すフリーフォールのような感情の揺さぶられようである。
現実的に死と直面しすぎると耐えられないからであろうか。
それとも免れない死を、関係するものと共有し、その先により良い関係を築くためであろうか。