南佳孝
摩天楼のヒロイン[73]南佳孝
SHOW BOAT/TRIO (FIRST PRESS ORIGINAL)*見本盤
日本の(Records Label)が本格的に意識され始めたのは、1970年代に入ってからのことであった。折しもForkやRockといった新しい音楽表現が、しだいにその潜在力をあらわにしてきた時期で、新興Labelが次々に設立された。皮切りはIndependent Labelの先駆けといわれるURC。Underground Folk Movementの核として多数の個性的なArtistが輩出した。母体は大阪の高石友也事務所(社長/秦政明)。歌詞の(過激さ)ゆえにMajorでは発売できないSingerの作品を世に送り出すことを目的に、1969年2月、会員制組織(アングラ・レコード・クラブ-URC)としてスタート。同年8月に会社組織に衣替えして市販に踏み切った。全日本フォーク・ジャンボリーの主催(季刊フォーク・リポート)の発行など、レコード会社の枠を越えて活動、後のFork/RockのStyleに大きな影響を残した。原盤制作会社としてもPioneer的な役割を果たしている。岡林信康/高田渡/中川五郎/早川義夫/はっぴいえんど(細野晴臣/大滝詠一/松本隆/鈴木茂)/五つの赤い風船/六文銭/遠藤賢司/斉藤哲夫/友部正人/加川良/ザ・ディランII/三上寛/なぎらけんいちなど強力な布陣だったが、Labelとしての個性はBellwood Recordsの設立とともに薄れてしまった。URCと同じ1969年に設立されたELEC RECORDS。吉田拓郎/泉谷しげる/古井戸などBusinessとして成功した、Forkを世に送り出した。拓郎が1972年にCBS/Sonyに移籍すると、伝説のRock Band(村八分)をReleaseするなど脱Forkを目指したが、ForkのLabelという印象は容易に拭えなかった。1975年、大滝詠一のNiagara RecordsがELEC傘下で設立され、山下達郎/大貫妙子などのSUGAR BABEがDebut、大滝詠一本人のSolo Debuも発表されたが、ELEC本体は1976年に倒産してしまう。URCの人材を大部分継承してMajor展開に導いたのがKing RecordのBellwood 。後年、Mercury Recordsの会長となる三浦光紀が責任者となって72年に設立されたが、実質的なStartは1971年。[ニュー・ミュージック]のLabelとして知られるが(Major化したURC Fork)という色合いが濃かった。Lineupは、CBS/Sonyに移籍した岡林信康/友部正人、Polydorに移籍した遠藤賢司、Victorに移籍した三上寛などを除いてURCとほぼ同じ。URC時代にReleaseのなかったあがた森魚/西岡恭蔵/はちみつぱい(ムーンライダーズの前身)などがBellwoodからのDebut組である。はっぴいえんどの大滝詠一、細野晴臣のSolo DebutもBellwoodから。1975年、三浦が日本Phonogramに移ると、再び主要Artistが移籍、Bellwood時代は事実上終わりを告げる。GS期のヒット・メーカー、村井邦彦が、川添象郎/ミッキー・カーチスとともに設立したMushroom Record、日本最初のRock専門LabelとしてNippon Columbia傘下で出発、71年11月に小坂忠/ガロなどを第1回新譜として発売した。このうち日本のCSN&Yと呼ばれたガロが(学生街の喫茶店-1972)でなどのNumber 1 Hitを放つドル箱Starとなった。村井はこのLabelに先駆け、原盤制作会社Alphaを設立して東芝と契約、赤い鳥/荒井由実などの大Starを育てあげた。70年代半ば、Mushroomは事実上、Alphaに吸収され、ヤナセ資本の導入でAlpha Recordsとして再出発、1978年にはYMOをDebutさせて大成功を収めた。Mushroom-Alphaは日本のRock Labelの王道を歩んだ。 当初(SHOW BOAT*SHOW BOATというのも実は細野晴臣が名付け親)は、よそと違って(Fork/Rock)という音の色分けにこだわった表看板を掲げなかった。その代わりEntertainmentとしてのPopへの志しを、意識的にLabel名にこめて出発した。この志しは(日本語のRock)という評価に甘んじたくない[はっぴいえんど]に端を発していた。Fork/Rockを絶対視するのではなく、洋楽一般の過去と現在を柔軟に取りこみながら(新しい日本のPop)に形を与えていきたい。彼らの創作の動機はおよそこのようなものだった。言い換えれば、ForkでもRockでもない、文字どおり[ニュー・ミュージック]を構築しようという志であった。こうした志を実現するには、音だけでなく音づくりのSystem全体を変革する必要があった。はっぴいえんどのManagement StaffはArtistの側に立った制作会社/音楽出版社として71年に風都市[City Music]を設立したが、これも(Systemの変革)に関わるものだった。そして、その風都市がTRIOと結んで生まれたLabelこそ、(SHOW BOAT)だった。(SHOW BOAT)の第1回新譜は南佳孝(摩天楼のヒロイン)と吉田美奈子(扉の冬)の2TitleとそれぞれのSingleが1枚ずつ。いずれも風都市所属の新人、新世代の象徴として、前者を松本隆が、後者をキャラメル・ママ(ティン・パン・アレー)がSound Produce。しかもその発売日は、風都市主催の[はっぴいえんど]の解散記念Event[CITY-Last Time Around-文京公会堂]に合わせて73年9月21日。南/吉田にとってこの日はDebut Stageともなった。[ニュー・ミュージック時代]が始まった歴史的な瞬間である!この73年の9月21日という日付は深い意味を持っている。ちょうどこの日に、はっぴいえんどの解散コンサート(CITY -Last Time Around)が開催されたのだ。当夜の文京公会堂には、はっぴいえんどの面々だけでなく、松本隆/山本浩美/鈴木博文/矢野誠らによるOriginal Moon Riders/伊藤銀次のココナッツ・バンク、それに吉田美奈子/西岡恭蔵らが参加している。南佳孝もこの記念すべきEventに出演している。白いスーツ姿で登場しString Sectionをバックにピアノの弾き語りを披露した。この(CITY-Last Time Around)は、はっぴいえんどの最後を見送る会であったと同時に、彼らと入れ違うように世に出て行く新しい動きを紹介する意味合いもあった。その証拠に、南佳孝やココナツ・バンクらが収録されたLive Albumには[1973.9.21 SHOW BOAT 素晴しき船出(*1980年7月5日、品番はそのままでJacketを変えて再発された)]のTitleが付けられていた。南佳孝(摩天楼のヒロイン)は、はっぴいえんどの松本隆が全面的にProduceしている。松本たちは、72年にアメリカの西海岸に渡り(HAPPY END)を制作するのだが、その現場でVan Dyke Parksと共演した。この体験は貴重であり、衝撃的でもあったのではないだろうか!Van Dyke Parks/Randy Newman/Ry CooderらによるBurbank Sound、つまりは(最後のアメリカの夢)を、南佳孝に託したとしてもそれは不思議ではないと思う。冒頭の(おいらぎゃんぐだぞ)で南佳孝のファンになった方も多いだろう。懐かしい響きをもったClarinetに先導され、Ragtime StyleのPianoが追いかけていく。それは、蝶ネクタイにパナマ帽/胸には薔薇の一輪を挿すという(摩天楼のヒロイン)のStylishなJacketの衣装ともども、南佳孝のImageを決定づけた。(おいらぎゃんぐだぞ)から(勝手にしやがれ)までのA面が(Hero Side)/(摩天楼のヒロイン)から始まるB面は(Heroine Side)と名付けられている。Musical仕立てのような構成で、列車に飛び乗ったり摩天楼に腰掛けたり、主人公は冒険とロマンスを繰り広げていく。(吸血鬼のらぶしいん)の吸血鬼というMotifからは、Harry Nilssonの(Nilsson Schmilsson-1971)を思い浮かべてしまう。今聴いても、本当に新しい。[時代を超えた名盤]というPhraseは、褒め言葉の常套句でもあるのだが、本当にそれに値する盤は、それほど多くあるわけではない。45年も前にこのAlbumが作られた意味を、改めて感じ取っていただきたい。ここから日本の新しい音楽が始まっていったのだ。(SHOW BOAT)も他のLabelと同じく個性の喪失を心配されたが、幸いにもこのLabelには、Route Musicを早くから指向していた久保田麻琴&夕焼け楽団/唯一無二の日本版Glam Rock Bandである外道/大阪NativeのBlues集団である憂歌団といった連中が所属していたので(ニュー・ミュージック)というより(Rock)のLabelとして、その後も命脈を保ちつづけることができた。1976年にはMushroomから小坂忠が移籍し、Labelとしての個性に花を添えた。後期には、憂歌団が(SHOW BOAT)の顔となったが、憂歌団人脈に連なる、誰がカバやねんRockンロールショー/花伸なども(SHOW BOAT)のArtistとして活躍した。SHOW BOATは、1981年の秋?に店じまいしてしまうが、[ニュー・ミュージック時代]の幕開けを演出し、多様化したJ-Rockのなかでもいちばん個性的な部分を育てあげてきたという意味で、J-Pop史/J-Rock史に長く名をとどめることは間違いない。
おいらぎゃんぐだぞ
弾丸列車
吸血鬼のらぶしいん
ここでひとやすみ
眠れぬ夜の小夜曲
勝手にしやがれ
摩天楼のヒロイン
夜霧のハイウェイ
春を売った女
ピストル
午前7時の悲劇
Alto Saxophone Takeru Muraoka
Bass Harumi Hosono/Rei Ohara
Bongos, Congas Taisuke Shindo
Chorus The Moon Heros
Drums Tatsuo Hayashi
Drums, Bongos, Congas Takashi Matsumoto
Electric Guitar Shigeru Suzuki
Piano, Electric Piano, Synthesizer [Moog Iiic] Makoto Yano
Piano, Rhythm Guitar Yoshitaka Minami
Resonator Guitar, Steel Guitar Hiroki Komazawa
Violin Masahiro Takekawa
Produced/Directed By 松本隆
*SHOW BOAT/TRIO:SHOW BOATは1973年、Trio(音響機器メーカー)のレコード事業部であるTrio Recordの傘下に設置された。Alpha Musicから引き抜かれて制作責任者となった松下典聖は、Labelの立ち上げに際し、関係の深かった風都市(*はっぴえんど周辺のArtistのマネージメントを行っていた)が原盤供給し、所有権はTrioという契約を結びました。 このほか風都市はLabelやロゴのデザインといった音楽以外の部分でも密接にかかわっています。多くの理想を乗せて船出した(SHOW BOAT)でしたが、彼らの仕事(夢)が社内で認められることはなく*つまり売れなかった、松下は就任1年を待たず飛び出してしまいました。 風都市も74年春にはこの契約が足枷となって破綻。日本の新しい音楽の胎動に導かれて誕生した(SHOW BOAT)でしたが、80年には実質的な終焉を迎えたようです。 荒井由実のDebutが73年、[ニュー・ミュージック]という言葉が使われるようになったのが75年あたり、そしてサザン・オールスターズがDebutしたのが78年。
*南佳孝:東京都大田区出身。子供の頃から兄や姉の影響で洋楽ばかりを聴いて育ち、中学時代には仲間とともにバンドを結成した。中学生の時点から既に(音楽で身を立てて生きていく)ことも決心していたという。明治学院大学在学中Jazzに傾倒していたことが後の曲作りに大きく影響している。1972年にテレビ番組のSinger Songwriter Contestで3位になり、翌1973年9月21日に松本隆ProduceによるAlbum(摩天楼のヒロイン)でDebut。この日、文京公会堂にて行われた(ラスト・ライヴを迎えたはっぴいえんど+α)のイベント(CITY-Last Time Around)への参加がDebut Stageとなる。その後、ティン・パン・アレーの(キャラメル・ママ)/ムーンライダースの(火の玉ボーイ)などに参加するなどし、1976年には自身による全作詞/作曲のAlbum(忘れられた夏)を発表する。1979年に発売された(モンロー・ウォーク)を郷ひろみが(セクシー・ユー)のタイトルでカバーし大ヒットした。その後、他のArtistへの楽曲提供/Collaboration/Produce/映画音楽/CMソング/さらに音楽以外ではNarrationなどもこなす。(都市生活者)/(男性のCoolな心情)をテーマにした楽曲も多く[Urban Pop]の旗手として若い世代のArtistにも影
https://youtu.be/6Ea8t1ICQW4
南佳孝 - Wikipedia
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