安田南
SOME FEELING[77]安田南
FRASCO (FIRST PRESS ORIGINAL)
[ULTRA RARE/MEGA RARE!No CUT/Trading At A Higher Price!/It does not come out rarely!/It is Amazing Sound Pressure!]
安田南(1943年11月14日-未詳)北海道札幌市生まれ。俳優座養成所(16期/同期に古谷一行/峰岸徹/大出俊などがいる)中退中学の時、北海道から東京目黒区の区立中学校に転入する。同級生に佐藤信(劇作家/演出家)がいた。一人で演劇部を創設するなど、活動的な生徒であった。高校を卒業後の1961年、18歳でテレビ番組、勝ち抜きJazz Vocal部門に出演し優勝、世界一周をした実力派。1964年頃から米軍キャンプでもStageに立つようになり、ジョージ川口とビッグ4/鈴木勲トリオなどを経てフリーに。Jazzの枠にとらわれない奔放・個性的な歌唱Styleで、1970年代に熱狂的な人気を集めた。1974年から1977年まで4枚のAlbumを発表しているが、他の歌手と比べ残した音源は多くなく(アングラの女王)の異名があった。1971年、第三回中津川フォークジャンボリーのMain Stageの安田南のライヴは、暴徒のため演奏中にStageを占拠されてぶち壊しになり、フォークジャンボリーは二度と開催されなくなった。歌手活動以外でも、自由劇場/黒テントを中心とした舞台出演/ラジオのDJ/エッセイの執筆などにMultiな才能を発揮した。70年代FM東京の名番組(気まぐれ飛行船)で、片岡義男とDJと務めて人気を博した。缶ピース100本吸うChain Smoker/伝説のJazz Singer/安田南のThird Album/西岡恭蔵の名曲(プカプカ)で描かれている煙草好きでどうしようもなくだらしないけど魅力的な(あん娘)の実在のModel。写真家で、Album(Some Feeling)のJacketを手がけた中平卓馬とは、恋愛関係にあった。1972年には、若松孝二監督の映画(天使の恍惚)で、主要人物の(金曜日)役で出演が決まっていたが、撮影途中に突然行方をくらまして降板し、後任は横山リエがつとめた。同映画のSound Trackに収録されている(ウミツバメ Ver.2)は、Creditでは横山の歌唱とされているが、演奏の山下洋輔は安田の歌声であると証言している。音楽Producerで、長年内外の数多くのMusicianを間近で観て来た大木雄高は、安田を[ジャズのスタンダードを日本で初めて歌いこなした歌手]と評している。親交のあった作家の瀬戸内寂聴も、歌手としての実力とともに、文才を高く評価していた。1990年代以降、事実上引退していたが、2004年7月Album(Some Feeling)が27年ぶりにCDで復刻された。映画評論家の梅本洋一が、2009年初めに安田の知人の森山大道(写真家)に、彼女の消息を聞いた所(既に鬼籍に入っている)という返答であったという。また、雑誌(ジャズ批評)2013年7月号の佐藤信のInterviewでも(既に亡くなった)という旨の証言がなされているが、正確な没年月日・死因等については不明である。音楽とは、上手さではなく[identity-独自性/固有性]であることを再認識させられ、型に収まらないScaleの大きさ/時代の空気を反映したおしゃれなJazz Vocal Album!演奏は松岡直也/小原礼/村上ポンタ/大村憲司/秋山一将/高水健司/山本剛など録音時の77年以降、日本のFusion/Jazz Sceneで活躍することになる凄いMember。日本の音楽史的には矢野顕子(Japanese Girl*所有)/淺川マキ(淺川マキの世界*所有)/吉田美奈子(フラッパー*所有)/荒井由美(ミスリム*所有)などと、並ぶ日本の女性Vocal史上に残る名盤として知られている!
Some Feeling/サム・フィ-リング 作詞:加藤直 作曲:林光
Tabi Wa Michizure/旅は道づれ 作詞:加藤直 作曲:林光
Not So Bad/作詞:安田南 作曲:タケカワ・ユキヒデ
Kabe No Uta/壁のうた(トラストDE) 作詞:斉藤憐 作曲:林光
Itte Shimatta Anta/いってしまったあんた(トラストDE) 作詞:斉藤憐 作曲:林光
Funauta/舟歌(皇帝ジョ-ンズ)作詞:佐藤信 作曲:林光
Fune No Uta/舟のうた(おんなごろしあぶらの地獄) 作詞:佐藤信 作曲:林光
Fuman Na Onna/不満な女 作詞:加藤直 作曲:林光
Oh My Lidia/作詞:安田南 作曲:タケカワ・ユキヒデ
Asa No Yuenchi/朝の遊園地 作詞:佐藤信 作曲:林光
Bass Kenji Takamizu, Rei Ohara
Drums Shuichi Murakami
Guitar Hiroshi Yasukawa, Kazumasa Akiyama, Kenji Omura
Piano, Keyboards Tsuyoshi Yamamoto
Piano, Keyboards, Arranged By, Conductor Naoya Matsuoka
Vocals Minami Yasuda
*若松孝二:宮城県出身/映画監督/映画プロデューサー/脚本家/農業高校二年時中退、家出し上京。職人見習い/新聞配達/ヤクザの下働きなどを経験チンピラ同士のいざこざから逮捕され、半年間、拘置所に拘禁され執行猶予付の判決を受けるその時の経験により後に監督デビュー作の(甘い罠)は(警官を殺すために映画監督になった)と豪語した通りに警官殺しの映画になっている。職を転々としテレビ映画の助監督になるその後ピンク映画の企画が巡って来た事が転機となり、1963年にピンク映画(甘い罠)で映画監督としてデビュー。低予算ながらもピンク映画としては異例の集客力をみせた。若松は(ピンク映画の黒澤明)などと形容されヒット作を量産する。若松孝二の映画作りの原点は[怒り]であり反体制の視点から描く手法は当時の若者たちから圧倒的に支持される。1965年(壁の中の秘事)が日本映画製作者連盟推薦の大映作品などを差し置いてベルリン国際映画祭正式上映作品となり、若松の名前はピンク映画業界を超えて一般に広く知れ渡った。若松作品は海外での評価も高い。プロデュース作品としては、大和屋竺監督(荒野のダッチワイフ-1967)/足立正生監督(女学生ゲリラ-1969)/大島渚監督(愛のコリーダ-1976)/神代辰巳監督(赤い帽子の女-1982)等がある。2012年10月12日、東京都新宿区内藤町の横断歩道のない都道を横断中、左から来たタクシーにはねられる。17日午後11時5分、入院先の病院で死去した
*佐藤信:1943年、東京都新宿区生まれ。1965年 早稲田大学第二文学部西洋哲学専修中退/劇団俳優座付属演劇研究所俳優座養成所を修了(14期)1966年、串田和美/斎藤憐/吉田日出子らとアンダーグラウンドシアター自由劇場を創立。1968年 演劇センター68/71(現、劇団黒テント)設立に加わり、1970年からは大型のテント劇場の中心的な演出家/劇作家として、1990年までの20年間、日本全国120都市におよぶ上演活動を展開。初期の代表作(喜劇昭和の世界 三部作/1973年-1979年)をはじめ、独特な幻想的文体によって社会や歴史を批評する戯曲を執筆。
*全日本フォークジャンボリー:日本初の野外フェスティバル/岐阜県恵那郡坂下町(現在の中津川市)にある椛の湖の湖畔にて、1969年から1971年にかけて3回開催された。中津川フォークジャンボリーという名でも良く知られている。
*第3回全日本フォークジャンボリー:吉田拓郎が(人間なんて)を2時間近く演奏を続けるうちなにかに憑かれたように(人間なんて)を延々と歌う拓郎に客が次第に集まり始め、その観客をまた巻き込んでの歌声が広がっていき、その数はどんどん膨らんでいった(人間なんて)の単純な歌詞の繰り返しには呪詛的な要素もあるため、酒の酔いも手伝い、一種のトランス状態が現出(人間なんて)を2時間近く演奏を続けるうち熱狂した観客がさらに増え、小室の(ここでやることは終わった。俺たちは倒れる。みんなメインステージに行こう!)の言葉が引き金となり観客がメインステージになだれ込んだ/出演:あがた森魚とはちみつぱい(鈴木慶一/鈴木博文/本多信介/渡辺勝)/浅川マキ/五輪真弓/岩井宏/遠藤賢司/岡林信康/加川良/金延幸子/かまやつひろし/カルメン・マキ/ガロ/はしだのりひことクライマックス/斉藤哲夫/ザ・ディランII/シバ/シュリークス/高田渡/武蔵野タンポポ団/Dew/友川かずき/友部正人/中川イサト/中川五郎/なぎらけんいち/長谷川きよし/はっぴいえんど/日野皓正クインテット/ブルース・クリエーション/本田路津子/三上寛/ミッキー・カーチス/安田南/山平和彦/山本コータロー/吉田拓郎/乱魔堂/六文銭/その他
*プカプカ:最初期は1960年代末の大阪のフォーク喫茶(ディラン)に集まった西岡恭蔵/大塚まさじ/永井洋の3人を中心としたフォークソング集団(ザ・ディラン)を結成。1971年頃に西岡恭蔵が脱退して大塚まさじ/永井洋の2人編成となる(ザ・ディランⅡ)。1971年7月大阪で活動していたザ・ディランⅡのSingle盤のB面として(プカプカ)という少し変わった歌が発表された。A面の(男らしいってわかるかい)はThe Bandによって有名になった楽曲Bob Dylanの(I Shall Be Released)を日本語でCoverしたもの(*ロック色が強かったため(東のはっぴいえんど、西のザ・ディランII)などと対比される)VocalはAB面ともにMemberの大塚まさじ。(プカプカ)の作者としてCreditされていた象狂象とは、Singer Songwriterとして活躍した西岡恭蔵のPen Nameである。ザ・ディランを抜けてSolo活動を始めた西岡恭蔵もまた同じ年に、First Album(ディランにて)を発表して自ら(プカプカ)を歌った。Sub Titleに[みなみの不演不唱(ブルースと読む)]と付けたことから、演劇センター68/71の大阪公演で西岡恭蔵と共演した。70年代FM東京の名番組(気まぐれ飛行船)で、片岡義男とDJと務めて人気を博した、缶ピース100本吸うChain Smoker/伝説のJazz Singerの安田南が、(プカプカ)で描かれている煙草好きでどうしようもなくだらしないけど魅力的な(あん娘)の歌の主人公のはないかと噂されることになった。**前座を務めた安田南と西岡は面識があったが、西岡の友人によると、歌のModelは安田一人だけではないと言う。(プカプカ)をCoverした人びと::原田芳雄/福山雅治/奥田民生/桃井かおり/桑田佳祐/泉谷しげる...
*西岡恭蔵(1948年5月7日-1999年4月3日):Musician/Singer Songwriter/作詞家/作曲家。愛称は(ゾウさん)、妻のKUROは作詞家。1960年代に、フォーク喫茶(ディラン)の雇われマスターとなる。その店に集まっていた常連客たちと、ゆるやかなユニットのようなフォークグループ[ザ・ディラン]を結成する。1971年頃に、ソロシンガーを目指し、同グループを脱退。(ザ・ディラン)はメンバーを固定しないグループで人の入れ替わりが激しかったが、最終的に残った大塚まさじ/永井洋がザ・ディランIIを名乗る)デビューアルバム(きのうの思い出にわかれをつげるんだもの)のレコーディングには参加する(同アルバムの楽曲の大半は、ザ・ディランのレパートリーであった)象狂象のペンネームで作った(プカプカ)は、彼にとっても、ザ・ディランIIにとっても、大塚にとっても代表曲となる。1972年に、吉野金次プロデュースのアルバム(ディランにて)でソロデビュー。1999年4月3日、妻KUROの三回忌前日に自宅で首を吊って自殺。享年50。
*片岡義男:小説家/エッセイスト/写真家/翻訳家/評論家/1974年(白い波の荒野へ)で小説家としてDebut(デビュー)。翌年には(スローなブギにしてくれ)で第2回野性時代新人文学賞を受賞し、直木賞候補となる。1970年代後半からは「ポパイ」をはじめとする雑誌にアメリカ文化/Surfing/Hawaii/Motorcycleなどに関するEssayを発表する傍ら、角川文庫を中心に多くの小説を発表。またFM東京の深夜放送番組(FM25時 きまぐれ飛行船/野性時代)のPersonalityを務めた他、パイオニアから当時発売されていたコンポーネントカーステレオ(ロンサム・カーボーイ)のテレビCMのNarrationを担当したりと、当時の若者の絶大な支持を集めた。
[安田南]
South(1974, Bellwood) - 安田南(vo),山本剛(p),岡田勉(b),小原哲太郎(ds)
Sunny(1975, Frasco) - 安田南(vo),山本剛(p),岡田勉(b),小原哲太郎(ds)
Some Feeling(1977, Frasco) - 安田南(vo),松岡直也(p),山本剛(p),大村憲司(g),安川ひろし(g),秋山一将(g),小原礼(b),高水健司(b),村上秀一(ds)
Moritat お定のモリタート(1977, Philips) - 安田南(vo),益田幹夫(p),濱瀬元彦(b),村上寛(ds),峰厚介(ts),宮城久弥(fiddle),宮田英夫(Harmonica)
[西岡恭蔵]
ディランにて(1972年7月25日)*所有
街行き村行き(1974年1月25日)*所有
悲しみの街(オリジナル・ザ・ディラン)名義、1974年4月25日)
ろっかばいまいべいびぃ(1975年)*所有
[ザ・ディランII]
きのうの思い出に別れをつげるんだもの-72 *所有
SECOND-73
オリジナル・ザ・ディラン-74
https://youtu.be/X32BZ4Iw5oQ?t=8
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