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2024年1月/1970年代 広島駅ビル地下にあった喫茶店、ホットケーキの曖昧な記憶、向原駅から芸備線で広島駅へ。

*2024年1月、Bloggerに投稿した記事をnoteに移動した。


広島駅南口の駅ビルアッセが、2020年3月、54年間の営業を終えた。

今後は、広島電鉄の路面電車乗り入れと周辺の整備、シネマコンプレックス、ホテルが入った地上20階の大型ショッピングセンターに生まれ変わり、2025年春のオープンを目指すという。

現在の広島駅は新幹線口と中央口がある。新幹線口側には、すでに2019年オープンした大型商業施設エッセがあり、土産店、地元の食事処、レストラン、カフェ、ファッション、雑貨、など多様な店が入る。

わたしが広島に住んでいたのは1987年までだ。だから、今回の広島駅ビルアッセの建て替えにより、良く知る広島駅ビルは、ほぼその面影が消える。

2023年11月撮影、広島駅前、南口側

広島駅ビルで何かを食べた最も古い記憶は、1900年前後生れのひいおばあちゃんと食べたホットケーキだった。ひいおばあちゃんと外食したのはその時だけだ。

1970年前後の広島駅南口の駅ビル地下は、食堂街と食品売り場があり、その一角に喫茶店があった、と思うが、定かではない。

薄暗い照明の全面ガラス張りで、入り口のガラス扉を押して入るとすぐに短いカウンター席があり、そこを抜けると2、3のテーブル席があった。

その日はひいおばあちゃんが、広島市内の病院に行く日だった。ひいおばあちゃん夫婦とおばあちゃん夫婦は、広島県北部の安芸高田市にある向原町に住んでいた。

JR芸備線の向原駅、東口側を出ると、1本の通りに面していて、

その通りからさらに1本、駅と並行に入ったところに、八百屋、本屋、ガラス屋、病院、散髪屋、おもちゃ屋、時計屋..などのお店が立ち並ぶ通りがあった。おばあちゃんの家はこの通りにあった。

1970年代、まだ小学生だったある日、JR芸備線の向原駅から約1時間で広島市内にある広島駅に着き、駅前から広島電鉄の緑色バスに乗り換え、総合病院にお供した。

診察が終わり、再び広島駅にもどり、JR芸備線で帰途につくまでのぽっかり空いた時間、ひいおばあちゃんは、わたしを広島駅ビルの地下にあった喫茶店に連れて行った。

2人は向かい合わせに座り、ホットケーキを食べた。厚さ2センチほどの丸いホットケーキが2枚重なり、てっぺんに3センチ角のバターが乗っていた。シルバーの金属容器に入った茶色のシロップがついている。

その時のホットケーキをそれほど細かく覚えてはいない。ただ、1970年代にわたしが食べたホットケーキは、ほぼこういう感じだった。

わたしは2枚平らげたが、ひいおばあちゃんは一枚完食すると、テーブルに置かれた紙ナプキン入れから数枚取り、折り目正しく包みこみ、持って帰りなさい、とわたしに渡した。

ホットケーキを一枚食べたあと、ひいおばあちゃんは、タバコ「わかば」を取り出し一服した。

この部分も実は覚えてない。彼女は「もちっと一服しよか」と、家事がひと段落するたびにタバコ休憩の習慣を持った。

わたしが2枚目のホットケーキを食べてるあいだ、きっと一服したはずだ。喫茶店とタバコは切っても切れない関係の時代だった。

ところで、その日のひいおばあちゃんは、薄いグレーのパンタロンスーツ姿だった。サマーウールのようなサラッとした生地だ。洋服を着ているのを見たのは、この時が最初で最後である。

普段は紺絣のモンペと割烹着姿だった。大晦日には、夜遅くまで全ての正月料理を作り終わった後、除夜の鐘が鳴る直前にお風呂に入り正月の着物に着替えた。

病院に行った夜、向原で夕食の団らんのとき、おばあちゃんが、

「ひいおばあちゃんはね、病院に行くときはパンタロンスーツを着て行くんよ、パンタロンみたいなハイカラなもんも着るんよ。ホットケーキを食べたんね、いつもあの喫茶店に行くんよ」

と、おばあちゃんがニコニコしてわたしに教えてくれた。周囲がパッと明るくなるようなとても美しい笑顔のひとだった。従姉妹のMちゃんは
「おばあちゃんは美貌じゃった」
今も当時の話になると必ず言う。

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