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つるつる・下

(幇間の一八は同じ置屋の芸者、小梅に岡惚れし、座敷で酔い潰れたりせず、夜中の二時に部屋へ来てくれれば一緒になってもいいとの約束をなんとか取り付けたが、馴染みの旦那に無理に酒を飲まされ、酔って帰ってきてそのまま寝てしまう)

 チンチーン──

「ふぁーあ……あれっ? 今ふたつ鳴ったよ。チンチーンときたらこっちのもンだ──って……明るいね。夜中の二時にしちゃ明る過ぎますよ。(廊下の足音に気づき)あっ、ちょっ、ちょっ──おかみさん、今ふたッつ鐘が鳴りましたね」

「ああ、鳴ったよ」

「あれ、夜中の二時ですか、それとも昼間の二時で」

「ばかだね、昼に決まってるだろ。お天道様がこんなに高いんだ」

「ひ、昼の二時──昼──あの、夜はどこ行きました?」

「とっくに明けたよ」

「明けたってそんな──なんで起こしてくんないんですよ」

「そんなこと聞いてないもの。あんた、よく寝てたよ」

「寝ちゃっちゃいけないんですよ。あたしゃ約束が──お、お梅ちゃん、お梅ちゃんは──」

「でかけたわよ。なんだか目の周り、赤く腫らして……なにかあったのかね」

「あ、あの、いつごろ帰ってきます──お梅ちゃん」

「知らないわよ。いくつお座敷かかるかわからないんだから」

「じ、じゃああたし、ここで帰ってくるのをずっと待って──」

「なに云ってんだい。あんただって仕事があんだろ。ぐずぐずしてないで風呂でも行っといで」


「はぁ……だから嫌だって云ったんだ。それを旦那が無理やり飲ませるもんだから……もし二時に間に合わなかったら、なかった縁と思って諦めてちょうだいって──まさかこれぐらいのことでねェ。とにかく会って、訳ェ話せばなんとか……でもね、お梅ちゃん、こういうとこはっきりしてるからね。一八つぁん、ちゃんと約束したのになんで来ないの。あんたとはもうおしまい、ダメッ、顔も見たくない──って、そりゃ殺生ですよ。ちょっと話だけでも──ね、ね、こっちだって止むに止まれぬ事情があって──ねえ、ちょいと、お願いですから──」

「なんだい、一八つぁん。なんか用かい」

「へ? いよっ、こりゃあ鉄つぁん、こんなとこでお珍しい──あァたとは縁がある」

「珍しかねえよ。うちの店の前だ」

「ああ、そうか……自然と足が向いちゃったね。夕べはシーさんとこちらへお邪魔いたしまして、遅くまでワッと──またあァたのお料理がね、相変わらず見事な包丁さばきで、お刺身なんかでも厚いものは厚く切り、薄いものは薄ゥく切って──」

「あたりまえだい」

「いえね、そのあたりまえをちゃーんとやるってのが料理人の腕の見せ所って……それで──旦那はあれからどうなってましょう?」

「夜っぴて騒いで、今日は神楽坂へ伸すってんで、気に入った妓を引き連れて──そうだ、あんたンとこの──ほれ、小梅ちゃん。あの妓にも声をかけてね」

「お、お梅ちゃん? お梅ちゃんも行ったんですか」

「さあ、見たわけじゃねえからな」

「な、なんでシーさんがお梅ちゃんに声なんか──」

「いいだろ。あンだけの売れっ子だよ、誰だって呼びたいやな」

「だ、だけどね、あの旦那は知ってるんだ。お梅ちゃんがその……あたしとその……チンチーン、てのを」

「なんだよ、チンチーンてのは? 云えない? じゃあ聞かないけどさ──おい、どこへ行くんだよ、急に駆けだして」

「ちょいと神楽坂まで──はっ、はっ……なんで旦那はお梅ちゃんと……はっ、はっ……いや、待てよ。旦那はお梅ちゃんがあたしと一緒ンなるってんで、おい、小梅、めでたいな。祝儀をやるぞ、って……あの旦那がそんなことするかね。まあいいや、祝儀ィ切らないまでも、なんか云うだろうよ。お前、一八となんだってな、とか……そしたらお梅ちゃんが、あら旦那、知ってらしたんですか。でもね、一八さんが約束の二時に来なかったから、もうこの話はなしなんです、って……それを聞いた旦那が、ああ、そりゃあな、俺が無理に飲ませたからだ。一八が悪いんじゃねえ。俺が代わって頭ァ下げるから、一八の野郎、許してやってくれ──なァんて……そうなりゃしめたもンなんだがな。どうしようかな。今からお梅ちゃんとこ行って、旦那や他の芸者の前で頭ァ下げるのもみっともねえし、ひょっとして旦那が仲裁に入ってくれるかも知れねえし……こりゃ家でおとなしくお梅ちゃんが帰ってくるのを待ってる方がいいか知んねえな──そうしよッと──」

 そうしようたって、まだ年季奉公の途中ですから家でゴロゴロしているわけにもいきませんで、お座敷がかかれば仕事にでかける。その晩もしたたかに酔って遅くに帰って来まして──

「えー、ただいまご帰還いたしましたよ。お梅ちゃん──お梅殿──一八が無事帰って参りました……あ、おかみさん、ただいま」

「あーあ、またグデングデンになっちゃって──そんなとこで寝てないでちゃんとお上がりよ──ほら、お上がりったら」

「おあがり、おあがりってね、いくら勧められましても、もうこれ以上は一滴たりとも頂けません。でもお梅ちゃんがね、もう一杯飲んだら許してあげる、なんてなことを云おうもんなら、あたしゃ死ぬ気で飲むン」

「なに云ってんだい。あの妓は今日は戻らないよ」

「へ? お戻りでない? それはまたいかなる事情で──」

「遠出だよ。シーさんのお座敷に呼ばれて神楽坂から深川だってさ。シーさんて云や、あんただって可愛がってもらってんだろ。それなのにお座敷がかからないなんて──あんた、なんかしくじったのかい」

「い、いえ、そんなことは……はあ……遠出ね。仕方がないや、また明日にでも……」

 ──って寝てしまう。その明日が明後日となり、明々後日となり、またその次の日になっても帰ってこない。どこまで足を伸ばしているのかとジリジリしはじめた頃、脇で変な噂を聞き込んで──

「お、おかみさん、今、お座敷でちょいと耳に挟んだんですが──お梅ちゃん、落籍されたってなァほんとですか」

「ちょいと落ちつきなよ、草履くらい脱いでお上がり。あんた、お座敷抜けて来たのかい? しようがないね、商売放り出してさ」

「そんなことよりお梅ちゃん、お梅ちゃん、お梅ちゃん──」

「わかったわよ、はいはい、その通り。急な話だったんだけど、あの妓がそれでいいって云うもんだからさ」

「ど、どうしてあたしに一言──」

「云ってどうなるんだい。あの妓はね、まだ家に居ちゃあくれてたけど、看板持ってる自前芸者だよ。一人で商売できるんだ。それに比べてあんたはなんだい。まだ奉公の途中の幇間だろ。口出ししたけりゃ、一本立ちしてから云いな」

「そ、そりゃそうですけど……でも、あたしゃお梅ちゃんと約束を──」

「約束?」

「い、いえ……それェ破ったのはあたしですから、文句も云えないン……あの……おかみさん、ひとつだけ……お梅ちゃんを落籍たのはどこの旦那で……」

「それ聞いて、どうすンだい」

「別に……どうもしないンで……」

「だったらいいだろ。幇間が腹に変なもン抱えてたらお座敷は勤まんないよ。……なんだいその顔は。しようがないね……そんな情けない顔ォしてたら座敷ィ出たってしくじるだけだ。今日はいいから、これでどっかで飲んどいで──近場はダメだよ、お茶挽いてると思われたら評判に障るから。遠くに行きな、いいね」

 その晩はどこで飲んでどう歩ったか、グデングデンになりながら、まだ屋台のおでん屋かなんかで、

「ねっ、親父さん──大将──ご主人──ほら、こ、こんなンなってんの。湯呑逆さにしても一滴も落ちてこないン。ね、空ッ──こういう時、あァたどうします? お客がなんにも云わなくたってさ、スッと次を──ダ、ダメッ、いけませんよ、そんな顔しちゃ。お座敷でそんな顔ォしたらね、次から呼んでもらえなくなっちゃう。ね、どんなに辛いことがあっても、こっちはヘラヘラっとしてなくちゃ……顔はヘラヘラ、心はシクシク、これなァに、って──」

「おい、一八じゃねえか」

「うン? よおッ、よおッ、こりゃシー……シーさん、お珍しいとこで。あァたとは縁がある」

「なんだお前、こんなとこで手銭でやってるのかい」

「手銭も手銭、人からもらった金なれど、あたくしの懐を通過して立派な手銭となりにけりで」

「あぶれてンのかい。だったらちょいと付き合いな」

「へへ、それがね、今日はお座敷はなし。おかみさんからもね、出たってロクなことはないよって、お墨付きを頂いてン」

「いいよ、いいよ、商売抜きだ。ちょいとお前に話があるんだよ。俺の客分てことで──こないだの柳橋の店な、あすこがいいや。いいからついてきな──おい、邪魔をするよ」

「あら、シーさん、いらっしゃい。おや、一八さんもご一緒で」

「今日はな、こいつは俺の客だからなんかさせないようにな。さあさあ上がれ、遠慮はいらねえや。ま、一杯いこう」

「へえ、どうも……」

「いいよ、そんな畏まらねえでも。客なんだから両手じゃなくって片手で受けろ、片手で──そうそう──ああ、いいいい。やったりとったりは面倒だ。お互い手酌で──それで……お前聞いたか、小梅のこと」

「へっ──あの……」

「聞いてるようだな。ありゃあ……俺が落籍いた」

「えっ? だ、旦那が──」

「おう。いや、俺もな、まさかこんな簡単に小梅が首を縦に振るたぁ思わなかったが……まぁ、そういうこった」

「だ、だって──旦那、知ってたでしょう、あたしがお梅ちゃんのことを──」

「聞いたよ。聞いたからこういうことンなった。あのな、小梅のことは昔っから俺も贔屓だった。なに、俺だけじゃねえや、座敷で遊ぼうなんて奴はみんな小梅の贔屓よ。だけどあいつは堅いって評判だし、実際、誰も旦那になっちゃいねえ。まあなんだ、土手に生えてる桜みたいなもんで、みんなしてぐるり取り囲んで、たまにこっちに花びらが散ってくりゃあ、ありがてえてなくらいだ。それがよ、いきなりその桜が他人ン家の庭に植わるってんだ。そうなりゃお前、こっちだって惜しくなるだろうよ」

「惜しくなるって、そんな──」

「そういうもんだよ。俺ァ他人が右ッてえば左、左ッてえば右へ行きたがる性分でな、ありゃあ他人のもンだよ、手ェ出しちゃいけねえよッてえと、よけいどうにかしたくなるんだ。お前だって他人の女房とか隣の客の喰ってる天丼とかな、そういうのが良く見えたりすンだろ」

「じ、じゃあ……あン時、あたしに酒ェ飲ませたのは、最初ッからそのつもりで──」

「飲ませたよ。飲ませはしたが──お前、二時には帰れただろ。そっから先はお前の出方だ。ちゃんと小梅ンとこへ行ってうまくやるか、潰れちまってダメんなるか──こっちにしてみりゃ相場と同じでどっちに転ぶかわからねえが……まぁ、俺の読みじゃあ酒にだらしのねえお前のこった、まず潰れるだろうと……」

「や、やっぱりあァたのせいで、あたしゃお梅ちゃんと──」

「待てよ。俺は約束は守ったんだ、文句は云わせねえよ。約束守らなかったのはお前だろ。お前が小梅の気持ちィ踏みにじったんだよ」

「そ、そりゃ違う、あたしは──」

「小梅はな、あれで案外、自尊心が強いんだ。誇り、気位、矜持──なんだっていいが、お高くとまってるわけじゃねえにしろ、あんだけの芸と器量だ、心ン中じゃあしっかり持ってたんだよ。その小梅が自分の方から、部屋へ来てくれりゃあ一緒ンなるって云ってお前のことを待ってたわけだ。まさかすっぽかされるたァ思ってねえやな。お前が来たらあんな話、こんな話と楽しみにしてただろうよ。それがいくら待っても来やしねえ。白々明けまで一人ぽつんと部屋に居るうち、一流の芸者だのなんだのと云われていままでピンと張ってた糸が、ふっと緩んで自分の弱いとこを見ちまったんだな。あの後、座敷ィ呼んで知らん顔で、なにかあったのかいッたら、いえ、なにも、なんぞとごまかしちゃあいたがね。飲むかってッたら珍しく飲むって、強くもねえのに杯ィ重ねて──酔わせてどうにかできる女たァ思ってなかったが、まぁ、よっぽどお前のことで気落ちしてたのか、こっちが驚くくらい簡単に……な」

 薄く笑った顔を見て、一八は思わず震える手で徳利を掴み、旦那を睨みつけたが、

「なんでェ一八──その手は」

「こ、これは──ちょいと替わりを……」

「いいよ。お前は客分なんだ、おとなしくそこへ座ってろ」

「いえ──ちょっと──」

 振り切るように座敷を出ますと、階段を駆け降り、奥の調理場へ。

「なんだい、一八つぁん。銚子の替わりか。だったら誰かに云って──おう、なにしてんだよ──危ねえじゃねえか、包丁なんぞ持って──おう、待て待て待て、どうしようってんだ」

「放してくれ、鉄つぁん。あたしゃこいつであの野郎を──」

「よしなよしな、そんなことしたらただ済まないよ」

「いいから止めねえでくれ。あの野郎こそ、ただ置かねえ」

「ただ置かねえって──それより包丁を置きな、包丁を。大事な商売道具をそんなことに使われちゃあ、あと使えねえじゃねえか」

「た、たのむから、せめて一太刀なりと──」

「松の廊下じゃねえよ。しようがねえな──(包丁を叩き落とすと、一八を捩じ伏せ)なにがあったか知らねえが、幇間が刃物ォ振り回して旦那に切りかかったとなりゃあ、もうこっちの世界じゃ生きていかれねえよ。解ッてんのかい」

「か、覚悟ァ出来てる」

「できちゃいないよ。頭に血が上って見境がつかなくなってるだけだ。いいかい、こんなことすりゃ師匠からも縁切りされるし、仲間や知り合いもみんな居なくなっちまうよ。そんだけじゃねえや、あんたが岡惚れしてる小梅ちゃんな、あの妓とだって会えなくなるんだぜ」

「そ、そのお梅ちゃんを──あの野郎が……」

「なに? 小梅ちゃんを? あの旦那が落籍いた? ふん……あんたと小梅ちゃんがチンチーンて約束してて……それェ聞いて惜しくなって……あんたに無理に酒ェ飲まして、脇から掻っ攫ッた? そりゃ酷ェや」

「わ、解ってくれましたか」

「チンチーンてのはともかく──あとは呑み込んだ。腹ァ立つな、くやしいな」

「だ、だったら手ェ放してください」

「いやァだめだ。こんなことしたってどうにもならねえよ。旦那刺しゃ捕まるし、刺せねえまでも、刃物ォ振りかざしただけで、もうここには居られやしねえ。どっちにしろ小梅ちゃんとは会えなくなるぜ」

「さ、刺さなくたって、もうお梅ちゃんとは……そんならせめて、あたしの気の済むように──あの野郎ぶっ殺して、あたしも死ぬ──」

「よせよォ、幇間の口から出る台詞じゃねえや、ぶっ殺すだの死ぬだのと──あんた云ってたよな、あたしゃ生まれついての幇間で、他の稼業なんぞ出来ゃしませんとか。そのあんたが幇間を続けねえでどうするよ。俺がここで手ェ放したら、あんたそれで終いだぜ」

「そ、それでもあたしゃ、なんとしてもあいつを──」

「どうにかしてえのは解る。してえのは解るが、そのやり方だ、な。幇間が刃物なんぞ使うもんじゃねえ。幇間なら幇間らしいやり方ってえのがあるだろ」

「幇間の……やり方……」

「そうよ、幇間だけにその……罰ィ当てるとか──(慌てて一八を抑え)いや、すまねえ、すまねえ、今のは悪ィシャレだった。だからそうじゃなくてよ、なんかあるよ、な──ほら、幇間なんだから相手にたかるだけたかって、尻の毛まで抜いちまうとか……え? そんな手に引っかかる奴じゃねえ? ま、だったら他によ──俺よりあんたの方がよく知ってンだろ」

「……質の良くない野幇間なんかが、嫌な客にわざと金のかかる女ァ世話して夫婦別れさしたとか……息子に遊びを教え込んで身上食い潰させたとかって聞いたこたァありますが……」

「いいじゃねえか。それやっちゃえよ」

「あの野郎、独り身なんで──相場師が女房子供を持つもんじゃないってのが口癖で」

「他にねえか──いや、いますぐじゃなくったっていいやな。とにかくよ、幇間が刃物ォ振り回しちまったらお終いだ。ここをグッと堪えてよ、座敷ィ戻ることが出来りゃ、あんた幇間として一皮剥けるよ、一流になるよ。そん時にあいつ見返して、一泡ふかせてやったらいいじゃないか。な、一八つぁん。幇間の意地ッてのを見せてやれよ」

「幇間の……意地……」

「どうだ? 俺、無理なこと云ってるか?」

 一八は首を振り、こぶしで涙を拭うと、

「鉄つぁん──お酒ェ……下さい」

「おう、グッとやれ、グッと。一杯飲んで気持ちィ落ちつかせてな」

「いえ、お座敷ィ持ってくン……上で待ってますんで。ええ、二、三本あれば……そいじゃ──(ひとつ深呼吸して)いよッ、旦那お待たせ」

「遅かったじゃねえか。なにしてた」

「いえ、あァたの前ですがね、お梅ちゃんのことじゃあ、さすがのあたしも堪えきれませんで、それで思わず──」

「思わずどうした」

「……便所入って一人で泣いてたン。そしたらね、ここのお女中が、あたしが酔ってどうにかなったんじゃあないかと心配してくれましてね、あの大丈夫ですか、お水でも持ってきてあげましょうか、なァんて……そいでちょいと戸を開けて見たら──新しい娘なんですかね、頬っぺのちょっとふっくらした──まだあしらいに慣れてなくってオロオロしてェて、その様子がなんとも──オホッ、世の中捨てたもんじゃない。捨てる神あらば拾う神ありってね。そいつを横から持ってく神なんてのも──さあ旦那、ひとついきましょ」

「ほう、そんな娘が居たかね──名はなんてンだ」

「名前? 名前は、てェと──鉄──じゃなくて……そう、お金ちゃんてましたかね。キンキラキンの金。鉄よりずっと値が張るン。鬼さんこちら、値の張る方へ──」

「ふーん(一八をじっと見て)……まあいいや。お前がそういう了見でいるなら、こっちも客分なんてこたァ云わねえ。祝儀はずむから、これから吉原にでも繰り出すか」

「いよっ、どこまででもお供いたしますよ。あァたとはね、もう死ぬまで離れないって──へへ」


 烏カァで夜が明ける。鶯ホケキョで春が来る。何べん鶯が鳴きましたか──

「ええ、ごめんください。一八が参りました──こりゃ女将さん、いつもお声をかけていただいてありがとうございます。こちらへ寄せていただくってえと、表から内まで掃除が行き届いていて、胸がスッといたしますな。いや本当、姐さんがたも云ってますよ、こちらのお座敷ィ出ると腕が一段上がるって──へい、本日も精一杯つとめさせていただきます……あの、ちょっと奥にもご挨拶を──鉄つぁん、すいませんが、いつものやつを──」

「よお、一八つぁん。(チラッと上を見て)あいつの座敷かい」

「ええ。野郎、ここンとこ姿を見せないもんで、病気でもしてんじゃないかって心配してたンですけどね、どうやら無事ご帰還のご様子で」

「仇の心配なんぞしなくてもいいだろうに──さあ、一杯注いだぜ」

「へい、どうも──(苦し気に酒に口をつける)」

「あっちより、自分の心配した方がいいんじゃねえのか。あんた、痩せたぜ」

「へへ、どうもね、野郎の座敷へ呼ばれるたんび、胃がキューッと苦しくなって、身体が震えるン。こればっかりは何べんやっても慣れないもんで……とは云え、真っ青な顔して出るわけにもいきませんしね、こちらで白粉ならぬ『お赤い』をいただいて、ちょいと顔色を直しませんと──」

「身体に無理かけてンだよ。いつまでもこんなことォしてたら──いや、あン時、幇間なら幇間のやり方で、なんぞと云って止めといて、いまさらだけどよ。見込みはあンのかい」

「いろいろ仕込ンじゃあいますけどね、なかなかどうも……まあ急がず焦らず、そのうちなんとか──へい、御馳走さま。それじゃあ、と──いよッ、旦那、昨夜はどうも」

「昨夜? いい加減なこと云うなよ。お前とは久しぶりじゃねえか」

「なに、昨夜あたしの夢にでて、おい、一八、明日はワッと騒ごうじゃねえかって──へへ、正夢、夢告げ。あたしのはよく当たるン」

「なに云ってやがる。夢で当たれば相場師は苦労しねえや。(一杯飲んで)ここンとこ、金ェ集めにあっちこっち行ってたもんでしばらく無沙汰ァしてたんだが、なんぞ面白いこたァねえか」

「それでしたら向島。あすこに双子姉妹の芸者がでましてね、これがどっちも甲乙つけがたいって器量良しで──えらい評判」

「双子で片ッ方が美人なら、もう片方も美人に決まってるじゃねえか」

「なるほどォ、旦那ァ話が早い」

「向島か……(懐中時計を取り出して見る)」

「おや、これから遊ぼうてお人が宵の口から時計なんぞ睨んで──いけませんよ、帰る算段なんぞしちゃあ」

「いや明日な、九時に新橋で人と会わなくちゃならねえんだ」

「しばらくお見えンならないと思ったら、余所で新しい妓とうまいことやって、二人で熱海かなんかへ温泉つかりに──」

「仕事だ、仕事。今、でかい相場が立っててな、まあ細かいこと云っても解らねえだろうが、とにかく金持ってる方が勝ちッて勝負ンなってんだ。そんでここ二タ月、三月、夜もろくろく寝ねえで金策に駆けずり回って、やっとこっちィ金出してもいいって金主を見つけたところよ。まあ話は大体ついてンだが、明日会って詰めのやりとりをな(酒を一口飲み)──なにボーッとしてんだ?」

「へ? いえいえ……じゃあ、その金主があァたにつけば、今度の勝負でまた大儲けと──すごいもンですな。それじゃ今夜は前祝いでもってワッと騒ごうと」

「そういきてえところだが、なにしろ勝負の際まで動き廻ってねえと相手に勘づかれるもんでな、また当分、顔ォ出せねえだろうから、今日ンところは繋ぎだ」

「偉いッ。その心掛けが立派。あァたお客の鑑ですな。もうピッカピカ。あァたの顔見てあたしゃ髭が当たれる」

 云ってるとこに、「今晩は」「今晩は」「シーさん、お久しぶり」と芸者が入ってきてパッと華やかになる。ひとしきり酒も廻って座敷が賑やかになって来た頃、

「ええ、旦那。明日のこともありますし、そろそろ──」

「そろそろって、お前──今、始まったばかりじゃねえか」

「でも今日はお顔を繋ぐってことで──」

「いいよ、まだ。それ、ヨイヨイと(手拍子を打ち、機嫌良く一杯飲む)」

「旦那、ぼちぼちお時間の方も──」

「うるさいよ。こっちがいい心持ちで飲んでるんだから黙ってろ」

「へえ、こりゃどうも──よっ、菊江姐さん、お見事。あァた、お酒が入ると一段と踊りに艶がでますな。ねえ旦那──お時間は大丈夫?」

「うるせえ野郎だな、何度も何度も──約束たって朝いちで駆けだすようなもんじゃねえんだ。九時に新橋なら、夜明けまで騒いでそれから一眠りしたって間に合わァ。こっちがやっと一息ついて遊びに来てるってのに、ちっとはのんびりさせろィ。今度なんか云ったら承知しねえぞ」

「へいッ。へい、もう云いません。明日のことはいいっこなし。ね。どうもあたしゃ旦那と違って気が小さいもんで、へへ……面目ございません。お詫びにどうです、あたしがご案内しますから、ひとつ気分を変えて、これから向島へ伸すッてのは」

「向島? ああ、さっき云ってた双子の──」

「美人姉妹ったってね、それだけじゃありませんよ。評判なのは踊りでして、湖水の蝶ッての。あたかも湖の面を舞い飛ぶ蝶々が、その姿を水面に映して二匹と見紛えるごとく、二ァ人が襖一枚隔てて左右に別れ、鏡に写ったように踊るン。これが爪先から指の先どころか、簪の揺れ具合、袂の振れ具合まで寸分違わぬってえ見事な息の合い方。他人じゃとてものこと、いくらやったってああまで同じに出来るもんじゃあない。正に一見の価値ありってやつで──ね、旦那が朝までって仰るんならまだまだこんなの宵の口、船でツーッて行っちまえば目と鼻の先でさァ」

「向島なァ……あっちはあんまり馴染みがねえんだ」

「なんの、あたしがご案内いたしますからにはね、シーさんが、一八、でかしたッて云うような、いい料亭にお連れし申しますよ。さあさ、思い立ったが吉日、善は急げ、一八丸てえ大船に乗ったつもりで、万事あたしにお任せを。ヨウヨウ、コリャコリャ──」

 ──で、向島へ。

「さあさ、どうぞ、入ってはいって──いよッ、女将さん、福の神をお連れしました。こちらシーさん。あたしの大旦那。大事にして下さいよ。こちらの旦那が一歩敷居を跨いだからには、この家に大判小判の雨が降りますからね。重みで屋根ェ潰さないように気をつけてくださいよ。そいで──右喜代、左喜代の双子ッ妓は……お座敷に出てる? そりゃそうですよ、あんだけの売れっ妓だ。空いてますよ、なんぞ云われた日にゃあ、却って拍子抜けしちゃう。あのね、遅くなってもいいから、是非来てくれるようお願いしますよ。あたしの顔が懸かってるン。エヘッ、安い顔ですがね。それとね、これからワッと騒ぎますけど、明日──ええ、旦那、(手を合わせ)云わないッて約束でしたが一遍だけ──女将さんね、こちらの旦那、明日大事な約束がありますんで──(旦那に向かい)七時で……ええ、起きて車呼んでブーッて行っちゃえば充分間に合う……じゃ、女将さん、その時間になったらね、なにがあろうと起こしてくださいよ。頼みましたよ──はい、もう云いません。あとは女将に任せてね、旦那は朝までごゆっくり──さあさ、お二階へご案内──」

 料亭が変わって気分も変わり、端の内は座も持ちますから一八は控えめに、客が馴染んで落ちついてくると、今度は陽気に盛り上げる。浮世を忘れてお客を遊ばせるのがお座敷で、一流の幇間ともなればその舵取りですから、その辺の呼吸は心得たもの。そのうち双子芸者が「今晩は」「遅くなりまして」とやって来てドッと活気づき、飲んで唄って、唄って踊る。夜が更けて、少しダレて来たなと見るや一八は、どこそこで今、こんな遊びが流行ってる、あっちじゃあこんな面白い話がありました、と座を逸らさない。繋ぎにつないで明け方近く、さすがに旦那もこのところの疲れからコクリコクリと始めると、

「さあさあ旦那、こんなところで寝て風邪でもひいちゃあ大変だ。あちらに布団のご用意もしてますんで、どうぞそっちでごゆっくり──と、その前に手水場へご案内──」

 手を取るようにしてすっかり支度をさせ、寝かしてしまう。それから下へトントンと降りまして、奥の女将に、

「ええ、あたしゃちょいと用事がありますんで先ィ帰りますが、旦那のこと、よろしくお願いしますよ。明日は──てェか、もう今日ですがね、ちゃーんと一時に起こして差し上げてくださいよ」

「一時? 七時って云わなかったかい?」

「いえ、一時で」

「……そうかい。あんたがそう云うなら──」

「旦那ァお疲れのご様子ですから、ゆっくり寝かせて差し上げて──寝起きにね、温めの渋い茶ァいれてあげると喜びますよ。旦那のお好みなン。そいじゃ──」

 ガラリ玄関を出ますと後も振り返らず、一八はついっと朝靄の中へ──


 こうしたらこうなる、ああやったらこんなことになる、ってほど先を読んでたわけじゃない。ただ、明日何時に約束が──と聞いた途端、小梅と会うはずだった晩のことを思い出し、ここだッ、と思っただけのこと。自分の持ってる幇間の技量のありったけで、旦那を馴染みのない料亭へ連れ出し、明け方まで飲ませて酔い潰す。あとどうなったかは知ったことかで、自分で起きりゃあ間に合ったろうし、そうでなけりゃそれまでのこと。やるだけのことはやったと一八は、そのまま放っておいた。

 しばらくして一八の許に一通の手紙が届いた。差出人はと見れば、梅──お梅ちゃん? 慌てて中を開いて見ますと、旦那が相場で何もかもを失い、首を括って果てた、としたためてあった。

「(手紙を持ったまま、しばし瞑目する。それからふと思いついて手紙を裏返し、呟くように)小石川……(戸を開いて)ごめんくださいまし。お梅さんのお宅はこちらで──」

「はい──ああ……一八さん……来ていただけると思っておりました。あの人は身寄りがないので、位牌はあたくしの所にございます。どうぞ線香のひとつも上げて下さいまし」

 ひさしぶりに見る小梅の姿はなんだかやつれたようで、一八には痛々しい。うながされて座敷へ上がった途端、ゴロンゴンゴンと遠雷が重く響き、坪庭に差していた日差しが俄に薄暗くなったかと思うと、ポツッ、ポツッ──雨粒がヤツデの葉を叩き始めた。勧められた座布団を脇へ、一八は位牌の前に膝を揃える。

「あの人は天の邪鬼で強引なところもあって、他人様からはいろいろ恨みも買っていたようですが、案外、胸の裡はさっぱりしていて、自分から誰かを恨むようなことはございませんでした。一八さん、あなたのことも……」

「(一八はじっと小梅を見る)」

「一八という名前がいいんだ。一か八かの修羅場をくぐる相場師と、どこか似たところがある──そう、いつも云っていました……」

 顔を伏せた小梅の細い肩越しに、サァーッと夕立が降り注ぎ、雨に打たれて庭の緑も一斉にうなだれた。

「……お線香、上げさせていただきます(線香を上げ、しばし位牌を見つめた後、御鈴を叩く)」

 チンチーン──


「(ハッと目を覚まし)あれっ? 今、チンチーンとふたッつ鳴ったよ。ふたつと来れば──(不思議そうに辺りを見回し)あれ……なんだここは? あたしの部屋……あ、おかみさん、おかみさん、今日はその──いつですか?」

「いつって──今日は今日だよ」

「その今日てェ日は、いつごろの今日で……」

「寝ぼけてんのかい。お前が昨夜、シーさんの座敷で飲んだくれて帰ってきて、ゴロッと寝て起きた今日だよ」

「てェとその……お梅ちゃんが落籍かされたり、シーさんが首ィ括ったりするのはまだ先で──」

「馬鹿なこと云うもんじゃないよ。さっさと顔でも洗ってきな」

「ああ、夢──夢かァ……夢とは云え、旦那には嫌な役振っちゃったね。首まで括らせて──今度会ったらヨイショしとこ。あれ待てよ。全部夢ってこたァ、チンチーンで二時にお梅ちゃんとこィ行くって約束……(バタバタと這い出て)お、おかみさん、いま二時? 二時?」

「そうだよ」

「夜の二時? 昼の二時?」

「昼に決まってンだろ」

「で、でも、外ァ暗い」

「雨降ってんだよ。雷ィ聞こえたろ」

「雷……さっき夢でお線香上げた時鳴ってたの……ありゃ本当なんだ──あのッ、あのッ、お梅ちゃん──お梅ちゃんは──」

「うるさいね、お前は──あの妓なら寝てるよ。頭ァ痛いとか云って、朝からなんにも食べないで臥せってンだ。どうしたのかねえ。昨夜帰ってきた時は、なんか浮かれたようでやけに機嫌が良かったてのに」

「お、お梅ちゃん──」

 雷に打たれたように飛び上がると一八は、四つ足で階段駆け上がって小梅の部屋の前へ──

「お梅ちゃん、お梅ちゃん、一八でござんす。遅れました。酒ェ飲まされてだらしなく潰れておりました。すいません、すいません、すいません。二時ってあァたと約束したのに、それが守れないなんて我ながらどうにも情けない。勘弁してくれったって勘弁できないでしょうが、で、でも、そこをまげて勘弁してもらいたいン。約束破ったらなかった縁と諦めてってお梅ちゃん云ったけど、とてもそんなこたァできません。あたしゃあァたに心底惚れてンです。もう一遍──もう一遍やり直させてください。いや、一度でダメなら二度三度──できるまでやらせてください。お願いします。頼みます。頭ァ下げます。土下座しろったらどこでもします。泥ン中だって頭ァ擦りつけます。お願いだ、お梅ちゃん。あたしゃなんでもします。あた……あたしゃ幇間だ。恥ずかしいとかみっともねえとか、そんなもなァみんな客に売ッ払ッちまった。裸で町内廻って来いッたら廻ります。それで許してくれんなら三周でも四周でもしてきます。だからお梅ちゃん……あたし、お梅ちゃんがいなくなる夢ェ見ました。悲しかった──いえ、おっかなかった。お梅ちゃんがいなくなったらあたしもあたしでいられなくなっちまう……こんな思いはもう──あたし今、泣いてます。鼻水垂らして泣いてます。もう顔拭かない。お梅ちゃんがいいって云ってくれるまでこのまんま、ズルズルのベタベタ……もうね、お梅ちゃんしか居ないン……あたしが大事にできるもん……お座敷で殴られ蹴られ、足で踏んづけた寿司ィ喰わされても我慢してる。自分の気持ちとかね、身体とか、そんなもん大事にしてたらやってけないン。そんでも──いや、そうだからこそお梅ちゃん、あァたが大事だ。大事にしたいン。……だめですか……ここォ開けてくれませんか……あたし駄々を捏ねますよ。もう恥も外聞もないン。子供みたいに引っ繰り返って、手足バタバタさせてね、お梅ちゃんがいいって云ってくれるまで……だからお梅ちゃん……開けて開けて開けて開けて──開けてくんなきゃヤダー!」

 チリンチリーン──

「(はっと顔を上げ)……風鈴……?」

「(涙をそっと拭いながら)……一八つぁん……間に合ったわ……」

「へっ? へえ……」

「障子開けて──入ってきて」

 一八がスッと障子を開けると、部屋の向かいの窓が大きく開かれ、雨上がりの空いっぱいに、ちょうど、虹。

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