『スター・ウォーズ スケルトン・クルー』(スター・ウォーズ ドラマ感想②)
あらすじ
SW新時代
ハリウッドの脚本家ストライキによる煽りを食らって2023年配信予定から丸々1年延期を経て公開された「スター・ウォーズ」の新ドラマ『スケルトン・クルー』がいよいよ完結しました。
ジュード・ロウを主演に迎え、4人の子供たちが迷子になるストーリーとの前情報こそあったものの、一体何の話をやるのか、既存の作品との関連性はあるのか等々その全容が杳として知れませんでしたが、蓋を開けてみれば新規のキャラクターをメインに銀河史のメインストリームから外れた、80年代ジュブナイルSFにオマージュを捧げた独立性の――そして実にオリジナル性の強い作品となりました。
嚆矢である『マンダロリアン』を除けば、一時のディズニープラス製「SW」ドラマはボバにアソーカ、キャシアン、オビ=ワンと人気キャラのスタンドアローン作品が主流でした。しかしながら最近では『EP1』の100年前を舞台にした『アコライト』や本作『スケルトン・クルー』といったより挑戦的で、全くのゼロから立ち上げた企画が散見されるようになってきたのは喜ばしい限りです。やはり、見知ったキャラクターは楽しい反面、ことコンテンツ全体で捉えた場合は、まだ見ぬ地平にこそ可能性が眠っていますから(再生数では訴求力に欠いているといった話もありますが……)。
とはいえ誤解しないで頂きたいのは世界観構築の面ではむしろこれまで以上に「SW」に忠実で、ムウンやハットのように当たり前な種族を当たり前且つ存分に登場させるナチュラルさは予算に制約のないコミックや小説で展開されてきたスピンオフそのもの。映像のリッチさでいえば他の追随を許さないレベルで、週1ドラマの域を遥かに超えたクオリティには何度も息を吞みました。
箱庭の平和
ウィムたちの故郷、アト・アティンは「SW」史上かつてないほど牧歌的且つ長閑な惑星です。その外観はアメリカの田舎町そのもののようであり、東京スカイツリーを生やした墨田区のようでもあり、およそ「SW」には似つかわしくない"地球的"な風景のアト・アティンでは通学バスが走り、子供たちは学校で進路決定に関わるテストを行い、ご近所さんは庭に水を撒く。そんな見慣れた景色の中にスピーダーバイクなりエイリアンなりが自然と溶け込んでいるビジュアルは大層ユニークであると同時に、その異物感に虚構めいた据わりの悪さを覚えるのも事実でしょう。
一見、何の変哲もない惑星が、ひとたび"外"の宇宙に出れば夢物語な伝説の存在として語られるギャップ――一体、アト・アティンで暮らす彼ら彼女らは何のために働いているのか。或いは、働かされているのか。われわれの知る「SW」の常識とは乖離した情報が提示され、視聴者を大いに惹き込みます。
そうした中で普通の学生生活を送るウィムとニールは絵物語のジェダイに憧れるナード的な少年として描かれ、ナンバリングの有名なシーンをごっこ遊びとしてパロった第1話は衝撃でした。かつてスピンオフ小説の「ジェダイの王子」シリーズに登場した、ジェダイやルーク・スカイウォーカーの活躍に焦がれ、部屋に宇宙船の模型を集めているケンすらも旧正史であるレジェンズにあってさえSカノン(部分的には史実に組み込まれているが厳密には非レジェンズ正史扱いの作品)認定されているくらいデリケートないわば禁じ手を現行カノンでやってしまうとはたまげました。
でも、小説やコミックでは絶対にストップがかかるだろうメタ表現を躊躇なくやってしまえるのが、見方を変えれば映像作品の特権であり、"格"といえるのかもしれません。賛否両論どんとこい、それでも貫いてやるぞという信念を確と受け取りました。
残酷で、冷徹な
平和なアト・アティンを飛び出してウィムたちは最初の寄港先である海賊の港、ポート・ボーゴで手痛いトラブルに遭い、外の世界の危険に容赦なく晒されることになります。海賊、密輸業者、情報屋……「SW」にはお馴染みの職業ですが、いざ何も知らない子供たちが対峙するにはあまりに危険で、命などいくつあっても足りない。現実に近しい景観を持つ理想郷のアト・アティンこそがファンタジーであり、エイリアンがたむろする猥雑なファンタジーが鋭利に現実を突きつける。この逆転現象こそが本作の"肝"なのだと感じます。
全登場人物中最も謎に包まれた男、ジョッド・ナ・ナウッドもそんな危険な存在のひとりです。フレンドリーなようで冷酷なこの男が露わにする本性には遠慮も手加減も一切なく、特に中盤から終盤に向けて子供たちが冒険に夢見た幻想に冷や水をぶっ掛けるが如く刃物を突き立てます。青いライトセーバーを振るい、フォースを操る唯一の頼れる大人たる"ジェダイ"が最大の敵である。そしてまた、そのジェダイも共和国の側に立てばヒーローなんかではない国家への反逆者である。新共和国だって決してパワーゲームに明け暮れているばかりでなく、人手が足りずマンドーに助力を願うくらい海賊の取り締まりに注力している――われわれ視聴者はついつい俯瞰から先入観を抱いてしまいがちですが、"ある視点から見た物語"ではそれもまた揺るぎのない事実なのです。だから「SW」は面白い。
ゴミ溜めのような生活の中で一度はジェダイという希望に"選ばれ"たジョッドはしかし、慈悲無き暴力によって全能であるべき師を奪われ、世界に絶望し、転落した。オーダー66後の時代、隠遁中のジェダイが才能のある子供を弟子にとるケースは過去にいくつものスピンオフで綴られてきましたが、実際のところ追われる身の茨の道にあってそんなに上手くコトが運ぶわけもなく。主人公という補正もない現実には、悲劇の方が多いに決まっているのです。何故なら、帝国の治世を終わらせたルーク・スカイウォーカーの物語以前に表舞台で華々しく活躍したはぐれジェダイなんて殆どいないのだから。
ここら辺、直近の『アコライト』でも描かれた他人様のテリトリーに土足で踏み込んで荒らしてゆくジェダイの無神経な奉仕精神が思いっきり出てしまっていますよね。恐らく、銀河にはジョッドやかの悪名高きフェレン・バー(邦訳コミック『シスの暗黒卿: 燃える海原』参照)の弟子のような悲劇も英雄譚の比ではなく数えきれないほどあったのでしょう。
新たなる希望
しかし、悲劇や絶望があれば未来への希望も存在するのがバランスというものです。最終話、アト・アティンに攻め入る海賊を撃退したのはウィムたち4人と彼らの父親・母親でした。
何もできない甘ちゃんのウィムにかつての無力な自分を少なからず重ねていただろうジョッドは最後の最後でとるに足らない普通の親子に足元を掬われ、圧倒的な強者でありながら"喰われて"しまう。その気持ちは如何ほどか。憎いだろう。恨むだろう。されど、どこかでほんの少し救われた部分もあるのではないか。援軍の到着に全てを悟って諦めたその表情に、単にしてやられ降参する以上のものを見た。改めて、ジュード・ロウにしかできない複雑な役どころであり、キャラクターでした。
その最終決戦がウィム父子とファーン母子の共同作業で成り立っていることも見逃せません。「SW」が親子の物語である旨はいまさら述べるまでもないことですが、その多くは別れと旅立ちによって為されてきました。アナキンも、ルークも、レイも、それからジンも。本作では冒険の末に帰るべき場所でありホームに戻り、親と子の力を合わせて悪党どもから星を救う。子の勇気に心動かされ「バリアで守られるべき」という弱さを克服する。『EP6』のクライマックスを踏襲しつつ、全く新しい形に再構築してみせる――親と子、解放と革命の物語。これぞ「SW」であり、確かに新しい「SW」です。
意に沿わぬ形で解放を果たしたアト・アティンがこれからどうなってゆくのかは誰にもわかりません。旧共和国の金庫である黄金郷はきっとさらに多くの敵の魔手に晒されるでしょう。それでも、銀河には悪党どもと同じくらい善人がいて、困ったときは彼らが手を差し伸べてくれる。未来を生きる子供たちと共に希望を胸に、新たな一歩を踏み出す日が訪れたのです。