24/10/27のつづき ~「自分の仕事を探す旅」に参加した感想~
昨日のほんの入り口さんで行っていた「自分の仕事を探る旅」に参加させていただいた。ファシリテーターはユウキさんとまなさんが行ってくれた。参加者の年齢層は幅広かったが、僕も含めた20代の方が占めていたように感じた。その20代の方々は、資本主義や会社の為に生きていることに自分の存在を見失っているような感じが見受けられた。また、仕事にやりがいを持ちたかったり、自分を生かしたいと考える方も多くいた。その話を聞いていると、首を激しく上下に振りたいほど共感した。確かに、会社や社会を見ると"自分は資本主義の歯車だけではないか”、“自分の価値は?”と考えたくもなる。しかし、他者との交流は、古着屋さんや美容室の方とお話を聞いて、商品や価値を購入するように、お金を用いて商品を交換することでもできることだとおもう。そこに考えてきたことやその人の過程を知ることもできるので僕は大切にしたいと思っている。
もちろん、不安や葛藤があるかもしれない。僕はブログは無料で書いているけど、いいねはあまりもらえない。今後、文章でお金にならないかもしれない。写真も金になっていない。今は感じていないが、仕事も雑用ばかりで、無償の仕事をしているかもしれない。それで悩むことも多くあった。そんな中、課題書である「自分の仕事をつくる」を読んでいるときに、「PERFECT DAYS」の主人公を思い出すことがあった。その映画では、公園や広場のトイレの清掃員という仕事でありながらも自ら工夫して、トイレの清掃をする。それは、社会の目には見えないかもしれないし、人からありがとうとも言われることも少ないかもしれない。それでも、一所懸命に働く。そして、仕事の後は銭湯と居酒屋に行って、夜は寝具に光を照らして本を読んで寝て、翌日も働くのだ。一見、なんも変哲のないことかもしれないが、その姿や清掃のあとのトイレが彼の芸術なのではないだろうかと思う。
社会に対して何かを求めようとしているかもしれない。それは、社会で生きる人間の本能だと思う。しかし、西村さんはこのような文章で書かれている。
仕事において、社会的価値を必要かもしれないが、それがすぐに出ることもないし、永遠に価値を認められないかもしれない。この文章を読んでみても、自分で考えて仕事をすることに、何が宿るのかはわからない。しかし、小説家でもあり、伝記作家でもあったアンドレ・モーロワさんは働く技術に関してこのように述べている。
映画の主人公のように細部の工夫だけでも、芸術を生み出す人となり、自由をもたらすのであることをこの文章から読み取ることができる。その時に、何のためなのかはわからないかもしれない、それが大きな経済のほんの一部かもしれない。それでも、体と指を動かし、自分の考えや工夫を細部に宿す。それだけでも、立派な仕事で、芸術なのではないだろうか。
それでも、社会に価値を認めてもらいたいと考えてしまう。前述したようにどうしても、社会の承認がほしいのだ。しかし、トーベヤンソンが書いた短編小説のなかで、他国へ行った恋人への手紙の中にこう書かれている。
もし、自ら考え、問いながら行う仕事を芸術と呼ぶとするならば、社会的責任や社会への認識をもって仕事を行うことも重要だ。しかし、それを求めすぎて迷走してしまうのではないだろうか。それなら、今関わっている仕事をよりよくしようとすることも重要ではないだろうか。僕はいつもPERFECT DAYSのあるセリフが忘れられない。
この言葉は、この先の約束や明るい未来がないかもしれないが、今の環境を大切に生きることが伝わってくる。兄はもともと大学院で歴史を学んでいたが、ある会社で営業や窓口をしているが、やはり売り込み方に疑問にもって、お客の信頼関係を大切にしたいと経済学や銀行について勉強していた。それだけでも、一つの素晴らしい考えだしそれを話をして表現する姿も一つの芸術だと思うのだ。もしかしたら、他人から評価を得られるようなことをすることが、仕事だと思い、今の仕事に不安を感じることもあるかもしれない。しかし、どんな仕事にも芸術を生み出せると思うと、仕事をしている人に尊敬ができるし、自分のその一部かもしれないと考えると少し気が楽になった。
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