「パルプ・フィクション」
鬼才クエンティン・タランティーノの映画、「パルプ・フィクション」を初めて見たのは、かれこれ7年前。映画好きの知り合いにおすすめの映画をきくと、「パルプ・フィクション」を勧められた。僕は、さっそく大学の視聴覚室で「パルプ・フィクション」を視聴した。(当時、大学の視聴覚室で、いわゆる旧作とされる映画であれば無料で見ることができた。今思えばありがたかった。)
初めて「パルプ・フィクション」を見た感想としては、ストーリーの意味が正直よく分からなかった。そのことを知り合いに伝えたら、彼は好きな映画だけにショックを受けてた。何気なく言っただけだが、もっとましな言い方があったように思う。ただ、それはつまらないと言いたかったわけではなく、自分が分からないアートや映画作品などに対してリスペクトがあり、むしろ褒め言葉のつもりだった。
最近、久しぶりにパルプ・フィクションを見た。2回目だ。今回は、ストーリーをきちんと理解できた。ただし、以前見た内容はほとんど覚えていなかった。ブルース・ウィルスが出演していたことや、ジョン・トラボルタ演じるヴィンセントが、あっけなく銃で撃ち殺されるのも、全く覚えていなかった。覚えていたのは、ユア・サーマン演じるミアとヴィンセントの有名なダンスシーンとオーバードーズしたミアが心臓に注射を刺されて意識が戻るシーンくらいだった。
改めて見返してみると、ストーリー自体はそんなに難解なものではなかった。むしろ分かりやすい。前回見たときは、バラバラな時系列に惑わされていたのかもしれない。「パルプ・フィクション」というタイトルであるように、何か深いテーマがあるわけではないのだろう。
ただ、登場人物に共通して言えるのは、全員が何かしら死にかけるような経験をしているということだ。生き方を変えなかったヴィンセントに至っては、あっけなく死んでしまう。作中の世界観は、まるで志賀直哉の「城の崎にて」の死生観に通じている。それはつまり、人は皆生と死の狭間を生きているということだ。そんなことを感じさせられる映画であった。