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徹夜逃走

Uber eatsの配達をする前の僕は地方での住み込みアルバイトを積極的に行っていた。ただ地方と言っても全国各地といった規模ではなく、主に東海地方と関東地方で住み込みアルバイトをしていた。それは単にあまりにも遠過ぎると、労働のキツさに音を上げた際に自宅に帰ろうにも簡単には帰れなくなってしまうからである。

とは言っても私はこれまで五つの場所で住み込みアルバイトをしたが、期間満了まで勤め上げる事をせずに途中で自宅に帰ったのは山奥の温泉旅館の住み込みアルバイトをした時だけだった。場所は長野県であり、よりによって徹夜で僕はアルバイト先から逃走したのだった。なので今回はこの時の事を思い出として記してみたいと思う。

それは2017年の事だった。確か僕は松本駅で降りて、そこからバスに乗り込み、有名な巨大なダムをいくつか越えてひたすら山奥へ進んだ記憶がある。バスには一時間半程乗っていただろうか。着いた先は秘境とも言っていい程の、人里離れた場所にある温泉旅館だった。本当にこんな所にわざわざ来て泊まる人等いるのか?と訝しがってしまう程の辺鄙な場所にあったのである。

それでその日は着いた時刻が夕刻だった事もあり、旅館から提供された食事を食べて温泉にも入れさせてもらい、ちょっとした旅行気分にも浸れたものの、問題はそれからの事であった。その僕にあてがわれた就寝用の部屋というのが、温泉の温度や水量を調節するモーターがある隣であったので、一晩中そのモーターが「ブイーン、ドンドンゴロゴロ」等と鳴り響くので僕は結局、一睡も出来なかったのだった。本当にとんでもなく大きくて鳴り響くモーター音であったので、僕でなくともあの部屋では眠れない人は多いのではないかとさえ思う。なのでそうなると翌日の労働は地獄そのものといった状態で、頭はボーッとするし、身体の反応は鈍いので、食膳を間違えて配置してしまったり、温泉浴場の掃除を素早く出来なかったりで、僕はそこの中居に叱られっぱなしだった。しかもこの中居というのが二人いたのだが、いずれも底意地の悪い女で、僕がちょっとした動作の遅れやミスをするたびに僕は必死に謝るのだが、それを許容する事なく舌打ちをしたり、「それでよく二十五歳まで社会人として生きてこられたわね」とか「ここは中学校じゃないんだから時間厳守で仕事をしてね」とかいちいち嫌味を言ってくるような感じであったので、睡眠不足で堪え性がなくなっている僕は一変でこの仕事を続ける事が嫌になり、昼休みになって女将に昨晩モーターの隣で寝たのでその騒音で眠れなかった事、そして二週間の契約雇用となっているが、昼休みが終わったら、東京の自宅に帰りたい事等を伝えたのだった。

すると女将は「貴方は神経質なんだねぇ」とか「ちょっと根性が足りないんじゃない?」とまるでこちらに問題があるような口振りで責めてもきたので、これに僕はすっかり自棄な気持ちにもなり、「何がなんでも帰ります」とだけ伝えた。そしてこうなると女将も折れた形となり、帰りの交通費は当然支給されなかったものの、僕は午前中に働いた分の四千円という給料だけ貰って徹夜の頭と身体を抱えながら帰路に着いたのだった。

ところで最近、旧制高校記念館という旧制高校松本高校の校舎を使用した、旧制高校の記念館がある事を知ったが、場所が場所なだけに躊躇してしまう。言わずもがな七年前の徹夜逃走の思い出が僕の胸に刻まれているからであり、松本という土地はとても良い場所だと分かっているものの、僕には縁起が悪いのだとどうしても思ってしまう為でもある。

松本市にある旧制高校記念館


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