望めば当たり前に授かると思っていた…baby ②
結婚まではずっと神戸在住
幼稚園教諭や
某Yエレクトーン音楽教室🎵に勤め
結婚前にマリッジブルーや??
メニエール病で入院したものの
1年半後に27歳で結婚
夫が転勤族で専業主婦に
担当した園児達に急に"先生"が
いなくなるような無責任極まる
悲しい思いはさせたくなかったので免許状がある仕事は諦めた
当時は結婚し専業主婦が
憧れのルート
昭和バブル期真っ盛り
毎月神戸に帰ってリフレッシュ
友達も
即❣️集合のランチ会
門限が厳しい実家
結婚してから
自由に羽をのばしてた
3年経って授からなければ
病院行くのが当たり前
毎日どこからともなく
あかの他人からも
お決まりのフレーズ
『お子さんは?』の
ハラスメントまみれな昭和時代
ギリギリセーフ3年目
『検査行かなきゃ!』って
プレッシャー
妊娠検査薬で確認できただけで
病院行く前から嬉しかった
喜びもつかの間
夫もめっちゃくちゃ喜んだ
が30歳で流産
31歳
前回の事があり神戸の別の病院へ
(当時は産後フルコースの食事で
神戸でも有名だったM産院)
命がけのお産
タイムリミット72時間
転勤族の夫と離れ
毎回早めの里帰り出産
(半年前から実家に甘え)
前回の事があり
"腫れものに触る"までいかないけど
おなかのbaby最優先で
より氣を遣う生活スタイルは変わらない
『良い!』と言われる事は
食事に始まり
サプリ
運動
全部取り入れた
babyが男の子でも女の子でも
大丈夫
『ここはデパート?!』
母と一緒に趣味のよう
世界のベビーグッズ買い集め
準備万端
半年前から実家暮らしで
私の部屋は
あとはbabyさえ無事に🙏って
想いだけ
ドクターも予定日前日にも
念のため心音や他の検査
あとは入院するだけ
朝になれば…って時に
…
突然 家の水まわりから
【水が漏れる】
夕飯のしたく中
台所の水が漏れ
床に水が走る
今思うと
勘の良い母は慌てて拭きながら
お腹のbabyを気にして
私に『大丈夫?』
『そんな事、急に言わんとってよ…
M(産院)さん行って帰ってきた
ところ…だし
さっきまでポンポンおなかを蹴ってるの確認できたけど…』
"私も不安に…なるやん"
今は…??
『おとなしいかな』??
って
まさかへその緒が
ピタッと巻きついてたなんて思いもよらないし
洗面所もトイレの水も溢れ
床が濡れ
母が
『え?ここも?』って
いろんな場所から水が漏れるから
母は動揺
泣きながら…(その時はまだ母の
病いも発覚前で動いてくれていた)
拭きまくって片付けの間に
私は
何とかして
胎動を確認しようとおなかばかり
さすっていたのを覚えてる
その後の記憶は悲しみが重すぎ
思い出すのが辛くて
いつもワザと思い出さないようにしてた
もう1人の自分との戦い
ですが…
8時間後の悲しい現実
まさか?と
よりによって!が入り混じる
不安な夜から
朝日が出るまで待ち
『早めに行こう』と母と産院へ急ぐ
きのうも座った診察室のいす
ドクターが慌てだす
ナースも
心音が止まってる
だけ…わかった
まだ携帯電話のない時代
詳しいことを聞くより
東京から飛んできた夫のカバンには
あとから退院後に見ると白黒のお悔やみのし袋・紅白の祝儀袋が入り混じり中で散乱してた
それからは待ったなし
72時間以内に出産しないと
母体も危なくなる自分との戦い
産院の部屋の外ではbabyの泣き声
産婦人科って残酷
産まれたばかりで
この上なく幸せ一杯なママと
突然
奈落の底に突き落とされ
ママに
なれなかった私
天と地の差
生きる希望も氣力もなく
『消えてしまいたい』って
こういう時の事なんだって
本当に悲しくショックな時って
涙もでない
状況が信じられず
空想の世界のよう
現実と思えない事が
扉1枚隔てた産院の自分の部屋だけ
まるで悪夢のような黒の世界
明かりはついても
空氣は暗く重い
周りはバタついても
取り乱す事も無く
ショックすぎて呼吸さえわからない
信じられない冷静な別世界
完全看護の産院で
母がつきそうベッドは無く
ナースが持ってきた簡易タンカー
ショックの母をそこに
寝させられる訳もなく
安心させる為に
睡眠薬をもらって飲み
「私も寝るから大丈夫.一旦帰って」と言ったものの一睡もできない
「睡眠薬って効かないんだ』って
薬からも見放されたって…
48時間がせまり総合病院に転院
転院すると陣痛促進剤が増え
悲しい魔法の絨毯に乗せられ
宙にフワフワ浮いてる感覚
何回も陣痛促進剤が増やされる指示
もう人間じゃない
わざと陣痛おこすモルモット状態
痛みの合間に目に入った部屋の隅は研修医のかたまり
実験台か!
時間だけ待ったなしで過ぎる中
息しないbabyでも
顔はできるだけ傷つけないで!
それから
子宮も産道も
次の子を産めるように
キズつけないで!…と
Drにお願いした
だけど出ない
時間がない
命のタイムリミットが近づく
何故って
生きて自力で出ようとするのと違い息しないから降りて来ない
風船で子宮口を開けたり
カンシで引っ張るしかない
陣痛促進剤をどれだけ使うの?
時間はせまる
薬の痛みで自分の身体じゃないようで
そんな中
私は母が泣きながら言った事は
忘れない
「ダメになった子はこの世に縁が
無かったんだから…
キズがついても…
1秒でも早くだして…お願い…だから」
母にすればあと何時間で孫だけで
なく私の命まで取られるって
生きた心地しなかったんだろうなぁ
親不孝な私
孫をあれだけ楽しみにしていたのに
時間も体力も限界ギリギリ
何とか出し(あえて産むじゃない
生きるって入った漢字使えない)
私の生命は助かった
残酷物語のような現実の世界
[お別れ]
babyがいなくてもオッパイは
張る→絞る→捨てる
また時間になると張る→絞る→捨てる
の繰り返し
日ごろから赤やピンクの服を着る
義母が白黒のセーターで病室に来たからわかってた
夫が私に言いにくそうに
「どうする?」って聞いた
『私は産声をあげた子しか
抱っこしない』
そう心に決めてたのは
ギリギリ生命の綱わたりの時に
母にいわれた言葉
と
ここでしっかり[お別れ]しないと
いつまでも諦められずに
自分を見失う人もいるからって
ナースかカウンセラーかわからないけど
部屋にしょっちゅう来てたスタッフ
今思うと
生命を絶ってしまうかも?ってほど
衰弱しきってたんだろうなぁ
霊安室から出棺見送る
『物を持つみたいに箱に入ったままのbabyが可哀想だったから
僕が車まで箱を抱っこして運ぶと…
まだ温かくて…綺麗な顔してた…』
と
後から夫がポツリ…泣きながら状況を言った
それを聞いた時
初めて
声にだして泣いた
今、書いていても涙がこぼれる
痛い時悲しい時
限界越えると声も涙もでなかった
実際入院中にbaby用の日記を
買ってたから
それに氣持ちを綴ったのは
今もまだ
見れないまま
書いてる時
一度だけ夫に見られ
『やめて、書くの』
って言われて
たぶん遺書を連想したのか
だけど何でもメモ魔の私は夫のいない時に書いていた
そこからは引越しの度に見つけるけど中を見る勇氣がなく30年たった今も開けれない
ブォーン 車のフォンの音
病室から手を合わせてそっと見送り同時に
心の中で名前が浮かびお別れした
窓も少し三角に開くだけ
飛び降りれない様になっているって冷静に思った
私の十月十日の擬似妊婦体験は
終わった
って思ったら
逃避行したくなるほど辛くても
実家で残酷な現実が…待ってた
最初の妊娠で流産したのもあり
期待だらけの
babyグッズで溢れる部屋
男の子でも女の子でもいいからと
母と2人で趣味のように増え過ぎた
母が私に見せない様に
背中で隠しながら準備した新品のbaby用品を黒いゴミ袋に入れてた
私が退院するまでにしたかったんだろうけど
変な氣を起こさない様に
私につきっきりだったから
隠す暇なんてないよね
ごめんね
悲しいのは私だけじゃない
鼻をすすりながら声ださないように泣いてたのが見え
自分の部屋に
わざと入らずリビングに居ても
オッパイがまだ張る
いつまでこんな状態?続くの?
社交的な母だったので
実家にいると
いろんな所から
悪氣なく
挨拶の後は
「生まれたん?」と
家の電話☎️が鳴る度
小声で母が氣遣って話し
壊れたレコード状態
同じ言葉の繰り返し
父は「電話の線.切ってしまえ!!」
母はすぐ私に氣遣い
『海外に1年くらい行っておいで』
『旅行!旅行だと思って好きな事やり』って
母がカラ元氣に言っても
喜んだり、笑う事すら忘れた私でも
沈黙せず
『行かないよ』と即答
コレを言った母も辛いだろうと
思った
昔から周りの人から
『良く似てるね』ってほど
一緒にいて
ハンコみたいって 笑われた
私は自分が凹んでいたら周りが
もっと苦しむだろうから
『大丈夫!』と取り繕い
これ以上母を悲しませたく無かった
・なんでこんなことが起こるのか?
・水が溢れたのはなぜ?
ちょうどbabyからの"知らせ?"
だとしたら
その時
手を尽くしたら助かった?
TVで"世界最小!奇跡の出産"とかの番宣が流れると
3000g以上もあったのに…
なぜ助からなかったの…と
思ってしまう
前の年に流産して
『肩より手は上にあげない方が良いよ』と、どこかで聞くと
『そうなの?』
って何でも信じるタイプ
髪も洗ってもらってた
今みたいにすぐ調べられず
それが良い悪いわからなくて
大事にしすぎたの?
私のせい?
思い返し重く暗くなる
私が沈んでいると
家族が皆、悲しむから
あえて平氣をよそおい
『もう氣もちは切り替えてるよ』
と表面上は感情を伏せ
淡々と前向きな私を演じた
同じ様に悲しむ夫1人おいて(週末には勤務地から実家に来てくれた)
海外には行けないよ
1人でなんか嫌だ
病院で1人で耐え
生還でき
家族と一緒にいたい!って心から
思った
今までは毎月神戸に帰省と言う名目の贅沢ランチ会
好き勝手にしていたなぁ
海外に一年間逃避行したら
『たぶん私、そのまま日本に戻らない』
1人で海外に行く勇氣もなく
夜ホテルでひとり過ごすのも考えられなかった
長い間お読み頂きありがとうございます
次は
徳川家康も《密かに》戦国時代に使った九星氣学…
宿命のこたえ合わせ③
に続きます