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地下鉄の風
通勤は地下鉄都営大江戸線を利用している。乗車した方ならお分かりかと思うが、とにかく深い。だいたいどの駅も長いエスカレーター3台分ほど下らないとホームに辿り着かない。そして狭い。手前と向かいの座席の間はおそらく1m程度、並んで立つと肩が触れてしまう、というより並べない。ここにドンドコ人が乗り込んできて、数駅過ぎればもうすし詰め、ギューギュー状態。よく映像にある典型的な都心の通勤風景になる。ちょっとだけ楽になるのは、学生がいなくなる夏と春前くらいだ。
光が丘は始発なので行きは座ることができる。しかし、椅子取りゲームのように争って座席を確保するのが嫌なのと、満員の中をオモムロに立ち上がり「降ります!すいません」と人々を掻き分けて出口まで行くのが嫌なので、それはしない。いつも入り口近くに立つことにしている。
中にはわざわざ手前の駅から戻ってきて、座っていく人々もちらほら(それはやめてくれとアナウンスしているにもか関わらず)。なんだかなあという朝の風景だ。ラッシュ時には3分間隔で発車しており、排水溝に吸い込まれるように次々とサラリーマンが都内へと送り込まれていく。これが毎日毎日、慣れてしまえば、まったくの日常。
この風景の一部を構成している自分が思うのは、だいたい皆んな一緒で大差はないということだ。抱えているものや境遇はそんなに変わらないはず。行き先は違うとはいえ、同じ空間を共有するいわば同僚だ。実際、同じ時間、同じ車両、同じ位置で乗り続けると、けっこう同じメンバーになることが多いし、乗り込んで来る人も同じ顔が多い。自分に似た誰か、他人に似た自分が多数いる、ということだ。
最も象徴的なのは、行きに光が丘ですれ違い、帰りに経由地ですれ違う人がいることだ。自分とは真逆の通勤をしているわけで、なんだか不思議な気持ちになってしまう。お互い同じ道を使いつつ、間違いなく別の人生を歩んでいることに。
地下鉄到着を告げる、暗いトンネルからピストンのように押し出される風。最初は生ぬるく、構内を走り抜け最後は突風になり地上へと吹き出す。この風を感じた瞬間に、乗り遅れまいとエスカレーターを一気に駆け降りる。この毎日のなんともせせこましく、シミったれた行為こそ我が人生。今はそれでよい。