「後藤ひとり」という生き方
「かくれんぼする人この指とまれっ」
――私なんかが、あの指にとまっていいのかな
2022年の秋アニメとして本放送された『ぼっち・ざ・ろっく!』。
冒頭のわずか9秒で引き込まれた。
おそらくは幼稚園か保育園の、玩具があちこちに散らばる教室の真ん中で、天井を指さして「かくれんぼ」しようと声掛けをする言い出しっぺと、その子に蟻の如く群がっていく他の子どもたち。
彼らの近くには、「かくれんぼ」には興味を示さず、床にしゃがみ込んで、話し込んでいるか玩具を触っているかとおぼしき子らもいるが、いずれも3人組で二手に分かれていて、誰もあぶれてはいない。
特筆すべきは、やはり主人公の「後藤ひとり」。
赤い小さなボールを抱えた桃色髪の女の子は、「かくれんぼ」という言葉に反応するが、ついに彼らの元へ向かって行くことはなく、ひとり、ぽつねんと立ち尽くしてしまう。
そんな彼女の在り方を端的に示すモノローグが、先に挙げた<――私なんかが、あの指にとまっていいのかな>だ。たぶん、10人いれば9人の子どもはそんなことを思わない。少なくとも、思春期になって、友人関係や男女関係などに敏感になって考えすぎてしまうまでは。ましてや、学童期にも至らない未就学児が、こんなことを考えて「ともだち」の輪に加われないなどとは、周りの子はもちろん、周囲の大人でさえ察することができないのではなかろうか。
――そう悩んでいるうちに乗り遅れて、気づいたらひとりぼっちの子
「ひとりちゃん、どうしたの?」
主人公のモノローグが続くなか、画面の外(そこまでは、子どもたちだけの目線、ひいては「後藤ひとり」の視点で世界が描かれていた)から大人である幼稚園の先生、あるいは保育士の女性が現れる。
先生は大勢の子どもたちを見守る中で、やはり、集団から孤立している子に目が行きがちなのだろう。他の子には見向きもせず、まず主人公に声を掛けてくれた。
だが、その後の対応が難しい。「どうしたの?」と訊かれて、幼児が的確に本音を伝えることができればいいのだが、そんな簡単には事は運ばない。
主人公は、なぜ「ともだち」の輪に入れなかったのかという理由も、本当は「ともだち」の輪に入って行って、おそらくは一緒にボール遊びをしたかったのだという本音も、まるで言葉にすることができず、沈黙してしまう。
先生は、もともと「後藤ひとり」という幼児が意思表示を苦手とする子だとよく判っていたのだろう。同時に、彼女の本音をつかみ取るまで、じっくり彼女に向き合うほどの時間は、多忙な大人にはどうしても用意できなかったに違いない。
「後藤ひとり」が本当は「どうしたの」か。
そして、「どうしたい」のか。
そこは追究しようとはせず、彼女を画面の外(=子どもたちの世界とは異なる、大人である先生と子どもの主人公だけの「ふたりの世界」)へと連れ去ってしまう。
連れ去るという表現は穏やかではないかもしれい。
だが、ひとりぼっちの子どもを集団の輪の中へ入れようとする多大な手間と努力を惜しんで、自分と関わらせることで、一応は落ち着かせる行為は、「後藤ひとり」の将来に確実に影を落とした。
次の場面転換で、その影が黒くはっきりと形を帯びてくる。
「はい、どうぞ。うふふ」
――遠足の時に、先生とお弁当のおかずを交換していたひとりぼっちの子
先生とふたりぼっちでお弁当を広げて食べる同級生の女の子に、あえて積極的に関わろうとする子がどれほどいるだろう。
あの子は先生としか、おかずを交換できないような「可哀想な子」。とまで蔑まれていたかは作中の描写だけでは判断がつかない。
だが少なくとも、「ともだち」のいない、先生からいつも「お守り」をされている女の子のことを羨ましいと思う同級生は、よっぽどの変わり者でない限り、たぶん、いない。
先生は、「かくれんぼ」の場面で立ち尽くしていた主人公を、画面外へと連れ去るのではなく、画面の枠の中、つまり子どもたちの世界の中で、見守り育てるべきだった。できるならば、必要なサポートを惜しむことなく。時間はかかろうとも、周囲との交友関係を構築するきっかけを作るべきだった。
そう思えてならない一方で、そうしていたとして、それが幼少期の主人公にとってベストであったかは疑問が残る。
かえって、根っからのコミュニケーション不全が災いし、周囲との人間関係で無数に傷付き、トラウマを植え付けられることも有ったかもしれない。
高校生になって人と本格的に関わるようになった主人公が、数々の精神的ダメージを受けることになるのを思えば、察してあまりあるのではないか。
そして作中では、「ともだち」と遊びたくて両の手に抱えていたボールを、先生に手を引かれた主人公はあっさりと放り捨ててしまった。
遠足の時に、先生からタコさんウインナーをもらった彼女は、満面の笑みとまではいかなくとも、明らかに、ほんのりと、ふんにゃりと、嬉しそうに笑みをこぼす。
幼児だった頃の「後藤ひとり」にとっては、先生とふたりだけの世界でも、関わってくれる人がいるだけで満足だったのだ。
「たったひとり」で良かったのだ。先生だけは、主人公の本意こそ見抜けなかったとしても、形だけなら、心を込めて、寄り添うことはできる。そんな優しい先生がひとりでもいてくれたことは、幼少期の彼女にとっては僥倖と言って差し支えないだろう。
だが、それではダメだったのだ。
なぜなら、彼女は、勿論他の子も同じだが、幼い子どもたちはみんな、成長しなければならない。というより、この優しくて残酷な世界に生まれ落とされた時点で、成長するという一生ものの「タスク」を宿命的に課されている。
未就学児としての2~3年間はあっという間に過ぎていき、望むと望まざるとにかかわらず、「後藤ひとり」は成長という人生の課題に曝され続けていく。
そして、さもありなん、「後藤ひとり」は周囲との関わり、コミュニケーションという点において「まるで成長していない」まま、歳だけはきっちり取り、身体だけ大きくなっていった。
――部活も入らず、放課後は即帰宅
――スマホに届くのは、親からのメッセージか、 クーポンのお知らせだけ
――それがわたし、「後藤ひとり」
――中学1年生
悲しいなあ(血の涙)。
と、ここまでで、アニメ1話の冒頭から46秒である。
たった46秒で、この作品の主人公「後藤ひとり」がどんな人間なのか(先の展開を考えると、人間というより、どんな「生き物」なのかと言ったほうがしっくり来るかもしれない)という、作品において最も重要な要素の一つである主人公の「人となり」が、ほとんど完璧と言っていいほど、ソツなくムダなく余すところなく伝えられているのだ。
私はド素人なのでアニメ制作サイドの内情はつゆ知らないが、この冒頭のシーンを完成させるのに、相当の時間と労力を費やし、工夫と苦悩と思考錯誤を繰り返したのではなかろうか。もし、そんな厳しい懊悩を経ずに、誰かが天啓のごとく斯様な冒頭シーンを想起して、絵にして形にして声(=命)を吹き込むことができたのだとしたら、アニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』の創造主は天才だろう。
まあ少なくとも、本作の監督を務め、『葬送のフリーレン』という幅広い視聴者層に人気を博した作品でも手腕を発揮した斎藤圭一郎氏は天才だろう。
そして、「後藤ひとり」役を、現実世界の「後藤ひとり」の如き陰キャ寄りの陽キャの一人として完璧に演じきった声優の青山吉能さんは、ネタ抜きで天才だろう。
余談だが、アニメと連動して現在も続いているネットラジオ『ぼっち・ざ・らじお!』(最新の第55回は2日前の2024年7月3日に公開。初回放送の2022年9月7日から最新回まで、YouTubeで絶賛無料公開中)では、青山さんが終始ハッチャケてフザけているが、随所に聴き取れる比喩表現や造語の巧みさ、ウィットや皮肉をマシンガンで生み出す頭の回転の速さ、お寒いネタ作りのうまさ、話題の抽斗の多さに唖然とさせられる。
特に、主人公が後にバイトに勤しむライブハウスで出会うPAさん役の小岩井ことりさんがゲストに出演した第38回は出色だった。
コロナ禍前から「mensa(メンサ)」という人口の上位2%のIQ(知能指数)を持つ人達が参加するグループに会員として所属している小岩井さんに対して、滲み出る知性をフル活用して丁々発止の不規則トークを繰り広げた青山さんの辣腕ぶりには脱帽だった。
青山吉能は天才である。
もう一度言う。声優・青山吉能は「天才の中の天才」である。
閑話休題。
大幅に話は反れたが、兎にも角にも、後に声優(なかのひと)並みの天才肌として、父親から借りたギターの演奏にのめり込んでいく主人公・後藤ひとり。彼女の生い立ちは、彼女の生来の人見知りな性質・特性(原作5巻では祖母からの隔世遺伝が示唆されている)と、引っ込み思案な彼女を集団の中に上手い具合に引き入れてくれる「ともだち」も「大人」もいなかったという幼少期の周囲の環境が大きく影響しているとみて間違いはなさそうだ。
「特性」と「環境」が、一個性の人間の生きる道を形作り、時には決定づけていく。
それは、アニメや漫画、ドラマ、映画、演劇、小説などの登場人物だけでなく、実社会を生きている私たちにも、丸っとそのまま当てはまってくる現実だと思う。
そんな現実と映し鏡のように、後藤ひとりは自身の「特性」と、親、きょうだいを始め、これから大勢の人間と関わっていく中で度々迫りくる「環境」の変化に応じて、激しく変容していく。精神的にも、何なら物理的にも。
そんな「後藤ひとり」の生きざま(生態)を観ていると、不思議なほどに惹きつけられて、画面から目が離せない。
「後藤ひとり」という生き方。
みなさんは、どう思いますか。
後藤ひとりみたいになりたいですか。
あるいは、後に「結束バンド」として共に活動することになる3人のように後藤ひとりの「仲間」になりたいですか。
それとも、ファン1号、2号さんのように、後藤ひとりを最初に見いだす最高のファンになりたいですか。
どんな視点でもいいんです。
どんな視点で見ても、後藤ひとりは面白いし、可愛いし、そして、最高にカッコいい瞬間がある。
つまるところ、『ぼっち・ざ・ろっく!』という作品の最大の魅力は、「後藤ひとり」という強烈な魅力を誇る主人公を造形できたこと、そこに尽きると思います。
アニメ制作陣、声優その他のスタッフ、そして原作者のはまじあき氏、コンテンツを支えてくれている大勢のファンの圧倒的な熱量。
それらをひっくるめて、今の『ぼざろ』の潮流が確立され、さらに発展し続けている。そう思います。
つらつら書きました。
今さらですが、初投稿です。
アニメと野球、あと興味のある本のことなど、適当に流し書こうと思います。
余談ですが、私の生き方は、まんま「ぼっちちゃん」でした。
小学生までは、性別とルックスとテストの点数以外は、まんま、ぼっちちゃんでした。
だから「後藤ひとり」という生き方は、つまるところ、私の生き方そのものでもあるのです。
(了)