道上洋三さんのラジオから始まる朝だった
昨日、図書館で郷土関係の資料を見ていた時に、道上洋三さんの著書を見かけた。
タイトルは『拝啓、おふくろ』。
関西人なら知る人ぞ知る、ABCラジオのかつての看板番組「おはようパーソナリティ道上洋三です」の人気パーソナリティーだった著者が、少年時代の母親との関係について綴った一冊である。
私の母親は大の阪神ファンであると同時に、熱心なラジオリスナーだ。
小学生の頃から、朝、7時ごろに起きると、食卓の脇のラジオではABCラジオがついていた。
私はトーストとヨーグルトの朝食を取りながら、主にサンテレビの朝のアニメ(午前7時~7時半くらいにやっていて、たいていは再放送)を観ていた。
『元気爆発ガンバルガー』とか『熱血最強ゴウザウラー』みたいな子供向けのロボットものから、『キン肉マン』『六三四の剣』のようなバトル・スポ魂の王道物、『HAND MAID メイ』みたいなハーレム物や、『無責任艦長タイラー』といったちょっと小学生には早いんじゃないかと思うものまで、アニメなら何でも見ていた私。
そして毎朝アニメを観ながら、(学校行かずに一日中アニメ見たいんだけどなぁ~)とか思ってた覚えがある。
そんなアニメ三昧の私も、小学校4年生くらいから母親の熱意に引きずり込まれて阪神タイガースのファンになった。
そうすると、もうこれは自然の流れに沿うように、熱烈な阪神ファンで知られる道上洋三さんの「第〇回 阪神タイガース劇場ォォ~~~!!」にハマることになる。
まあ、タイトルでも想像がつくが、「スポーツの話題」と称してほっとんど阪神の話題で埋め尽くされる、たぶんトップクラスの人気コーナーだった。
阪神が勝った翌日はもうお祭り騒ぎといった様相で、昨日の試合をハイライトシーンの音声で振り返りつつ(ABCラジオでは阪神の試合がたぶん100%、試合開始から終了まで放送される。この伝統は今も変わらない)、最終的には道上さんが我らが国家「六甲おろし」を熱唱。アシスタントの女性も一緒に歌ったり、合いの手を入れたりして盛り上げ、スタッフが用意した風船が報道ブース内を乱れ飛ぶ音までバッチリ音声に拾われている。はしゃぎ過ぎィ!
一方で阪神が負けた試合の翌日は、たいていまともなアナウンサーのトーンで野球以外の競技の話題か、他球団の試合結果などを淡々と伝え、アシスタントが「あ、道上さん……昨日のタイガースのことは?」などとそっと話を振り、道上さんがいかにも憤懣ありあまるといった空気を醸しながら昨日の試合の〝反省〟をするといった流れ。まあ、お通夜なのであるが、これはこれで落ち着いて聴けるし、負けたとしてもやっぱり阪神愛にあふれる道上さんの心根や、アシスタントとの掛け合いの面白さもあって、阪神ファンのリスナーですら、ぼやきながらも「まあ、しゃーない。切り替えてこ」みたいな感じになる。
阪神が勝っても負けてもおもろいコーナーとか、こんなん人気出るに決まっとるやん!
まあこのコーナーに関しては、ずいぶん昔の話だが、関東の巨人ファンのサラリーマンが大阪に出張で泊まって、朝にラジオをつけたらたまたま阪神が巨人に勝った翌日のコーナーを耳にしてしまい、あまりの極端な贔屓っぷりに「ええぇ……関西ってそうなの」とドン引きしたという逸話も。まあわかる。
そんなコーナーが、だいたいは午前7時台前半の、サンテレビの30分アニメが中盤の山場にさしかかるぐらいから始まっていた。
アニメの続きも気になるし、今日の道上さんがどんな話をするかも気になるしで、どっちを取るか結構悩んだ小学時代。
その後、私が中学生くらいになると、母親が朝のテレビはニュース番組をつけるようになり(さすがに中学生くらいになったのならアニメばっか見てないでニュースを見なさいな、という意図もあったかもしれない。私は放っておいたらたいてい、テレビはアニメかプロ野球中継ばかり熱心に観ていた。一方で本はめっちゃ読んでいたし、ニュース情報はテレビより家で取っていた神戸新聞から摂取していた)、ぶっちゃけニュースは見ようが見ないがどうでも良かったので、道上さんのラジオに熱中した。
高校生になると、せっかくだから一度くらい運動部も経験しておこうと水泳部に入り(中学時代は情報科学部とかいう名前だけはゴツいが実態はパソコン教室でだらだらネットサーフィンしてた超緩めの文化部)、それなりに朝練もあって残念ながら道上さんのラジオを聴く機会が減った。まあ、高2のときに部内の人間関係が面倒になって退部した後はまためっちゃ聴いたけど。
大学生になったら京都に下宿し、残念ながら道上さんのラジオが聴けなくなった。まだ「radiko(ラジコ)」のサービスが始まってなかったし、KBS京都の『笑福亭晃瓶のほっかほかラジオ』も結構面白かったので、ラジオはそれで満足していた。
ちょうど高校生頃から諸般の事情で千葉ロッテマリーンズのファンも兼ねるようになり、大学生に入ったころには、同じ1989年(平成元年)生まれの唐川侑己投手(2007年の高校生ドラフト1巡目指名)がマリーンズに入団。平成元年生まれで初の勝利投手になって話題になるなど、この時期はむしろマリーンズのほうへ気持ちが大きく傾いていったことも大きかった。
私が大学3年生だった2010年には史上最大の下剋上を目の当たりにし、一方でタイガースは戦力的には結構充実していたのに、2005年以降は大逆転で優勝を逃したり、もう一歩のところで結局「オレ流」落合博満監督率いる中日ドラゴンズに苦杯を舐めるなどして燻っていた。
まあこんな感じで、親元を離れて環境が変わってからはしばらく道上さんのラジオから遠ざかっていたのだが、またこっち側に戻ってきたのが、社会人になってからメンタル疾患で病気休職して、2012年に約5年ぶりに実家に舞い戻ってきてから。
母親は相変わらず毎試合阪神戦の中継を観て、毎日おはパソを熱心に聴き、阪神に左右される人生を送っていた。
メンタル不調でしんどかったころの私は、そんな母親を遠く感じた。というか、心が病んでいたときは、本当に好きなものも楽しめなくなっていて、あれだけ熱心に観てたアニメの視聴からも遠ざかり、マリーンズの試合にしても、身を入れて観ることができなかった(2011~12年は、シーズン中の浮沈はあったもののチームが6、5位に低迷していたこともあったが)。もちろん阪神からも気持ちが離れていた。
それでも。
それでも、ラジオは付いていれば自然に頭に入ってくる。
そして、道上洋三さんの語り口は、いつだって自然に入って来て、やっぱり楽しかったのだ。
仕事を休んで体調が回復したのも相まって、私は再び、タイガースや道上さんの魅力に取りつかれた。そして徐々に、マリーンズへの熱意も復活(ちょうど2013年から、マリーンズOBとは毛色が違う伊藤勤監督が指揮を執ることになり、チームの雰囲気が刷新したのも良かった)。
まあ、体調の急回復は「うつ状態」を改善するために飲んだ気持ちを上げる薬の影響がある意味効きすぎて、「双極性障害」の「軽躁状態」が急に発現してしまったというのもある。アレはアレでもう本当にやばかったんだよなあ……。
まあ、そんなこんなで結局仕事をやめて、1年近くの無職期間を経て転職し、行った先の業務内容が自分に割と合っていたこともあって、ある程度は状態が落ち着いた。そんな状態の落ち着きに寄与したのは、道上さんのラジオが有ったからと言っても過言ではない。
だって、道上さんのラジオが聴きたくて朝早く起きれたもん。おかげで無職の時などはとくに、生活サイクルが夜型に偏り過ぎず、不規則さがちょっと改善していたことが、メンタル疾患が少しでもマシになる方向に間違いなく効果を発揮していたと思う。
そんな道上さんに、一度だけ直接会ったことがある。
当時のアシスタントが、1990年生まれで同世代のキューちゃん(久野愛さん)だったので、たぶん2013年末ごろ。
当時無職だった私だが、確か三宮のジュンク堂で二人が来てサイン会を開くという情報を知り、条件であったABCラジオパーソナリティの写真入りのカレンダーを購入。いそいそと現地へ向かったのだ。
……ふたりのパーソナリティの似顔絵(下手くそ)まで持ってったんだよなあ。子どもか!
サイン会では二人がカレンダーの隅にばっちりサインしてくれて、スタッフさんが私の携帯で、お二人との「スリーショット」も撮ってくれた。私が臆面もなく似顔絵を差し出すと、道上さんが「絵心あるね」と、絶対お世辞だけど優しすぎるお言葉とともに受け取ってくれた。阪神の大ファンである母親のことも話すと「お母さんにもよろしくね」と笑顔で応じてくれた。
冒頭で紹介した書籍のタイトルの通り、道上さんは自身の母親のことについてもよく言及しておられた。そういう本人の気持ちもあって、家族を大事に、という心意気を真摯に伝えてくれたのだと感じている。本当に、会いに行って良かったなと今でも思っている。
そんな道上さんも、2006年に脳腫瘍の摘出手術・2018年に髄膜腫の放射線治療を受けていた。
いずれも、番組をしばらく休んでいたが、その後に復帰してからは元気なおしゃべりを続けていた。
だが、2021年9月に発症した脳梗塞が引き金となり、その後は番組に復帰することはかなわず、長寿番組は2022年に幕を閉じた。
今でも後継のアナウンサーが持っている朝のラジオ番組で「阪神タイガース劇場」を催している。
もちろん、これもいいんだけれど、やっぱり、道上洋三さんが創り出していたあのタイガース劇場の魅力は、どうしても忘れられないなあ。
いつかまた、道上さんのあの声が聴きたい。
そう思わずにはいられない、私なのです。
阪神タイガーズ、ばんざぁぁ~~~~~い!!!!!
(了)
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